山梨県北杜市に牧原という地名がある。武川支所がある場所。かつて甲府から韮崎を通って諏訪に向かう中継地点として賑わった。
地名は「牧原」だが、バス停は「牧の原」と??
「牧」とは、古代律令制で、牛馬の放牧地。「和名抄」には「真衣野(まきの)郷」と当て字されている。7世紀以前,すでにこの地が官の放牧地であった。毎年30疋の駒を貢上することが定められていた。
新羅三郎義光から8代、武田時信の子として山高甲斐守(太郎)信方、白須三郎貞信、教来石四郎信紹、牧原五郎時貞、依田(鳥原)七郎宗景、白井八郎貞家、西境九郎信泰、折井(青木)十郎時光などの名前が見える。
他の系図では、若干名前が異なる。白井(白須?)八郎貞家が牧原となっているのもある。
新羅三郎義光-義清-清光-武田太郎信義-信光-信長ー信綱-時信-牧原八郎貞家
一条忠頼が頼朝に謀殺され、甥の武田六郎信長が一条氏の跡を継ぐ。その孫の一条時信が武川衆の祖といわれている。時信は祖父信長に勝る人物で甲斐守護職に補せられ、よく武田宗家を補佐した。時信には男子が多かった。
時信(一条源八)---信重(一条与一)
-義行(一条与二)
-信方(山高太郎)
-頼行(弥三郎)
-行貞(又三郎)
-貞信(白須三郎)
-貞連(慶良吉六郎左衛門尉)
-宗景(鳥原七郎)
-貞家(牧原八郎)
-時光(青木十郎)
-信奉(両境九郎)
-源光(青木別当蔵人)
-信源(横板寺別当)
なお「南葵文庫本・武田系図」によると、「一条忠頼五代の末裔一条時信は南北朝のころ、子息たちを白須、鳥原、牧原、青木などの諸村に分封し、これが武川衆となる」とある。
武川衆は甲斐の国境の警備、金鉱の発掘などに携わり、川中島、長篠の合戦にも活躍したが、武田家滅亡後は徳川に臣従した。その出世頭が柳沢吉保である。
ところが残念ながら「牧原」の名は史書には登場してこないのである。