虚無僧のイメージは暗い。隠棲、遁世、隠者、
世間から遁れ、身を隠す者というイメージが
付きまとう。それを払拭して「明るい虚無僧」
に変換していきたいというのが私の願いだ。
偈箱(げばこ)に書かれた『明暗』の二文字は
「明と暗にこだわらず」さらには「暗を明に変
える生き方」という意味が込められている。
私自身、子供の頃“根暗”だった。自分の
性格を変えたくて虚無僧になった。そして今
「明るい虚無僧」のイメージ作りを模索して
いる。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。
山崎ハコの「きょうだい心中」
2’55”のところで、私の写真が使われてました。
明治の中ごろ、京都で「兄妹心中」という事件があった。
それを受けてか、こんな俗謡が 和歌山県の港町で流行った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私の夫は虚無僧吹きよ、歳は19で、その名は正夫。
夫 殺してくだしゃんしたら、添うてあげます 一夜二夜でも 三夜でも。言うてお清はひとまに下がり、
さあさこれから支度にかかる。(中略)深い編み笠
面手にかぶり、一尺五寸の尺八笛を 瀬田の唐橋
笛吹いて渡る」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お清の夫は「虚無僧」とは驚き。歳が19というのは若い。 尺八が一尺五寸というのも不思議。
さて、そのお清、兄に関係を迫られる。許されぬ兄妹近親相姦。
そこでお清は「私には夫がいる。夫への貞節を貫くために、 虚無僧の夫を殺してくれ」と頼む。そして自らが虚無僧に変装して、 兄に討たれるという話なのだ。
「袈裟御前」の話と類似している。ただ「顔がわからぬよう 虚無僧」に変装しているというのが特異。
大津絵に描かれる「女虚無僧」は、この話からイメージして
作られたものかと思える。
虚無僧が流しの曲として吹く曲に『恋慕流し』という曲がある。
江戸時代、女物の着物を着た派手な「伊達虚無僧」というのも流行った。
「女虚無僧」はホントに居たとは思えないのだが、
江戸時代の浮世絵にはいくつか描かれている。
虚無僧には、どこか「艶っぽい色気」が漂うのだ。
『仮名手本忠臣蔵・九段目山科閑居の場』では、
大星由良之助の山科の閑居に 虚無僧が現れる。
妻の戸無瀬、娘の小浪を追ってやってきた加古川本蔵
の忍びの姿だ。
そして幕切れ、由良之助が本蔵の着ていた虚無僧の衣裳で
旅立っていくのも、これから仇を討ちに行こうとする人の
装いとして、虚無僧はふさわしいものだったことを意味
している。
この『仮名手本忠臣蔵』が、人形浄瑠璃として初演されたのは
寛延元年(1748)、歌舞伎は翌年(1749年)のこと。
天明6年(1786)に人形浄瑠璃で初演された『彦山権現誓助剣
(ひこさんごんげん ちかいのすけだち)』では、「女虚無僧」が
登場する。 男に変装するには、虚無僧は都合のよいものだったか。
この役者絵として「女虚無僧」を描いた浮世絵が 結構 出回り、
「女虚無僧」を主人公にした話もいくつか作られたが、実際に
「女虚無僧」が居たのかは不明である。芝居や小説の中だけの
「妄想」だったか。
そして「歌舞伎十八番」の『助六』。黒の着流し、高下駄、
腰に差した尺八一管。『助六』が登場するとき「ツレ~」と
尺八が鳴る。これも「カタキ」をねらう「虚無僧」を連想
させる。
正徳5年(1715年)、二代目市川團十郎は、中村座で『坂東一
寿 曾我(ばんどういちことぶきそが)』で、曾我五郎を
演じたが、そのなかで"虚無僧"に扮した場面があり、これが
大当たりした。翌年、中村座の『式例 寿 曾我(しきれい
ことぶき そが)』で、「助六は実は 曾我五郎」という
設定がうまれた。
いずれも、江戸時代の半ば、1700年代が 虚無僧の全盛期
だったのだ。
昨日3/28、アクセス件数 1,069件あり、gooブログ291万件中、なんと411位!
昨日見られた記事のトップが、2018年12月の「吉川英治『宮本武蔵』に「虚無僧」が」でした。
Facebookに、『宮本武蔵』の映画の一場面をアップしました。
この映画で、虚無僧となった青木丹左衛門が尺八を吹くシーン。吹いているのは、私の師、福沢諭吉の孫堀井小二朗です。
https://www.facebook.com/dean.delbene/videos/609745762369841/UzpfSTEwMDAwMDAzMjY3ODcwNDpWSzo2MDk3NDU3NjIzNjk4NDE/?epa=SEARCH_BOX
2018年12月の「吉川英治『宮本武蔵』に「虚無僧」が」の記事再掲です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
吉川英治『宮本武蔵』の「火の巻」
当然人は住んでいないものとばかり思っていた家の奥に、風で燃え出した炉ろの火がぱっと赤く見え、しばらくすると尺八の音がそこから聞えだした。
ちょうどよいねぐらとここに一夜を明かしている虚無僧らしい。独り尺八を吹いているのだ。それはまた他人に聞かそうためでもなく、自ら誇って陶酔している音でもない。秋の夜の孤寂の遣瀬なさを、無我と三昧に過ごしているだけのことなのだ。
一曲終ると、虚無僧は、ここは野中の一軒家と、安心しきっているらしく独り言に――
「四十不惑というが、おれは四十を七つも越えてから あんな失策をやって、禄を離れ家名をつぶし、あまつさえ独りの子まで他国へ流浪させてしまった。慚愧にたえない。死んだ妻にも生きている子にも会わせる顔がない。
このおれなどの例を見ると、四十不惑などというのは聖人のことで、凡夫の四十代ほど危ないものはない。油断のならない山坂だ。まして女に関しては・・・。
二十代三十代なら取り返せるが、四十代の失敗は二度と芽を出すことがむずかしい」
浪人の垢じみた着物を着て、その胸に、普化禅師の末弟という証ばかりに黒い袈裟をつけているに過ぎないのである。敷いている一枚の筵は、常に巻いて手に持って歩く彼の唯一の衾であり雨露の家だった。
「やめよう、また愚痴が出て来おった。……おお月が出たな、野へ出て、思うさま流して来ようか。そうだ、愚痴と煩悩を野へ捨てて来よう」
尺八を持って、彼は外へ出て行った。
ネットで検索していたら、こんな記述を見つけた。
「吉川英治の『親鸞』を小学生の頃読んだ。そこに虚無僧が出てくる。親鸞の命を狙ってつきまとう。それで、虚無僧は“悪者”と思い、嫌いになった」と。
おいおい、誤解である。
『親鸞』に出てくるのは「薦僧(こもそう)。
私も中学の時、読んだが「菰僧」が、当時は「菰僧」が「虚無僧」のこととは知らなかった。『親鸞』に出てくる「菰僧」は、親鸞の幼い頃からのライバル寿童丸の下人で、親鸞とも親しい。悪いのは、親鸞に嫉妬し、亡き者にせんと、山伏となって親鸞をつけ狙う寿童丸。その付き人の「○○」は菰僧となって、主君を陰ひなた見守り、時に諫める善人である。この書き込みをした人は、山伏も虚無僧も一緒にしているようだ。
吉川英治は虚無僧が大好き。虚無僧を悪く書くはずがない。
しかし、この親鸞の時代(平安から鎌倉時代)に、尺八を吹く菰(虚無)僧は、まだ出現していません。薦僧は室町時代の後半から出現する。
吉川先生そんなことも 知んらん かね。
「暮露」とは何をする人?
『七十一番職人歌合』の「暮露」には長柄の大きな傘が描かれている。どうやら、「暮露」の所持品、商売道具は「長柄の傘」のようだ。
『洛中洛外図屏風』には?
貴人や高僧の後ろから日傘を差す人物は多く描かれている。
それと別に僧形で大きな傘を持つ二人連れが二組描かれている。
これが「暮露」だろうか。一図は二人共傘を差し、一図は一人が傘を差し、一人はつぼめたままで持っている。
長柄の傘は「暮露」の必須アイテムらしい。そこでネットで「九品念仏」を検索してみたところ、各地に伝わる念仏踊りに「傘(笠)踊り」というのが多いことが判った。
極めつけは、大阪の住吉神社に伝わる「住吉踊り」。
住吉踊りは念仏踊りの一種。長柄の傘を持った音頭取がその柄を扇子(割り竹)で打ちながら調子をとり、傘のまわりを菅笠をかぶった四人の少女たちがが扇子を打ちながら「すみよしさーん、やーとこせ」歌いながら踊り回る。
この住吉神社は、一休と縁が深い。「暮露」⇒「念仏踊り」⇒「住吉」。そして⇒「一休」⇒「尺八」⇒「薦僧」⇒「普化」へと一本の線がつながるような気がしてきた。
「虚無僧」は、いつ頃から使われるようになったのか。
室町時代、山口を支配していた「大内氏」の法令集『大内氏壁紙』が初見だという。
(パソコンやケータイの最初の画面を「壁紙」と云うが、室町時代「壁紙」とは、お定め書、掟書きのこと)
『大内氏壁書』の原本は、山口県下関市の「市立長府博物館」に在る。それを活字化した『岩崎俊彦著大内氏壁書を読む』(大内文化探訪会)が刊行された。
それには、「虚無僧(こむそう)」ではなく「薦僧(こもそう)」と書かれていた。
「文明18年(1486)4月20日付禁制」
『第90条 薦僧(こもそう)放下、猿引の事』として
一、薦僧、放下、猿引事、可払当所并近里事
薦僧(こもそう)は尺八を吹いて放浪していたから、曲芸師の放下僧(ほうげ)や猿回しと同様の旅芸人として扱われ、「当所(山口の城下)並びに近在の里でも払うべきこと」。つまり=追い払えと云っている。
文明18年(1486)とは、足利義政の世、銀閣寺が建てられた頃。
一休は文明13年(1481) 88歳で歿している。その5年後の事。
「薦僧」は西国山口まで往来し、不審者として追い払われる存在だった。「薦僧」が一般名詞になっていることは、全国的にもかなりの薦僧がいたと考えられる。
室町時代の「薦僧」。腰に薦を負っているから「薦僧」と呼ばれた。
「三十二番職人歌合」に描かれた「薦僧」。やはり後ろに薦(菰むしろ)が
『とはずがたり』は、鎌倉時代、後深草院の寵愛を受けた「二条」という女房が、自らの半生を赤裸々に告白した文芸作品です。
原本は宮内省の図書寮に永く眠っていて、公開されたのが、戦後の
昭和25年ですから、『源氏物語』や『更科日記』『蜻蛉日記』ほど、世間一般には知られていません。
それを元に、「瀬戸内寂聴」が『とわずものがたり』と題して
「婦人公論」に連載したのは、昭和45年(1970)でした。
『とはずがたり』とは「問われぬままに 一人語りする」という意味。
2歳で母に死なれ「後深草院」の元に預けられていた「二条」は、14歳の時、後深草院に犯され妊娠。 その後も皇族や貴族と次々と関係を結んでいくという内容ですから、戦前、戦中はとても公開できなかったのでしょう。
平安時代から、室町時代までは、フリーセックスは自然の姿だった
ようです。それを糺したのは、徳川二代将軍「秀忠」です。彼の妻は
「お江与」。恐妻家でしたから。
さて、この『とはずがたり』の巻四に「ぼろ」が出てくるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
正応2年(1289)、二条は37歳。出家して尼となり、諸国遍歴の
旅に出ます。熱田宮、三島大社に詣で、鎌倉に行き、鎌倉幕府の
要人とも親しくなり、浅草、善光寺と旅をします。
そして「ある時は僧坊に留まり、ある時は男の中に交わる」と言いながら、その先
「修行者といひ、“梵論梵論(ぼろんぼろん)”など申す風情の者と
契りを結ぶ例(ためし)もはべるとかや聞けども、さるべき契りもなく、徒(いたずら)にひとり片敷きはべるなり」と独白しているのです。
つまり、旅に出れば、修行僧や「梵論梵論」などという風情の者とも
契りを結ぶというが、そんなことは無かったと言っているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、「暮露(ぼろ)」は「ボロ」の着物を聞いている乞食などと一般に思われてますが、違います。『七十一番職人歌合』に描かれている「暮露」は白い紙衣に黒の袴。清楚な衣装です。
また『徒然草』にも「梵論」「漢士」と記されていることから、私は次のように推測しました。
「梵論梵論(ぼろんぼろん)」とあることから、「ボロ」は、ぼろを着ていたからボロ」ではなく、「梵字」に関係することば。
それは「大日如来の一字金輪の咒=のうまくさんまんだ、ぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん」と唱えていた念仏者ではないかと推察されるのである。
「虚無僧」の語源は「薦僧(こもそう)」。「薦を負い、野宿する僧」、ようするに乞食僧のことだ。その初見は『大内氏壁書』。
大内氏は、室町・戦国時代、周防国(山口県)を本拠に中国地方を支配した大名。その「掟書」。
文明18年(1486)というから、一休が88歳で没した5年後。
「禁制」の中に「薦僧、放下、猿引は、当所ならびに近里より追い払うべし」とある。
「薦僧」は「放下」や「猿回し」と同等にみられ、「見つけ次第追い払え」というのだが、「嫌われ者」というより、他国から流入してくる不審者として警戒されていたようだ。
翌 文明19年には、「異相の仁」、そして「笛、尺八、音曲」は「夜中路頭往来禁止」となっている。
一休と同時代の横川景三が編纂した国語辞典の『節用集』には、「薦僧(コモソウ)・普化(同)」とあって、「普化」と書いて「こもそう」と読ませている。一休の時代には、既に薦僧と普化とが同一視されていたのか。但し、この『節用集』は江戸時代まで、ずっと補筆、加筆されていたらしいので、「普化」は後世の加筆かも。
その50年後、1500年代前半に書かれた『三十二番職人歌合』の絵には「こも僧」、詞書きには「虚妄僧」。
江戸時代初期に書かれた『一休諸国物語』には「一休が普化僧となって」とあり、江戸初期では「虚妄想、普化僧」などと書かれていた。
では「虚無僧」と書いたのは、何時、誰なのか。調べているが不明。活字になったものは後世の人によって虚無僧」と変えている場合がある。「原本」を当たってみると「こもそう」だったり「変体かな」の「古毛そう」だったりするのだ。
「ぼろ」とは、鎌倉時代の末頃に現れた「梵論」や「暮露」あるいは「梵論字(ぼろんじ)」「梵論梵論(ぼろぼろ)」などと呼ばれる、半僧半俗の物乞いの一種。身なりがボロボロであることからの名称であるといわれている。
さらに、暮露が転じて薦僧→虚無僧になった。つまり「暮露」は虚無僧の前身というのだが、私はこの説に疑問を呈したい。ぼろの話は、鎌倉末期に吉田兼好(卜部兼好、兼好法師)によって書かれた『徒然草』の第百十五段に出てくる。
徒然草 第百十五段
【古文】
宿河原(しゅくがわら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉るば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわずらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。
ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじょう)を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。
資料:徒然草(元禄期に出版された物内 第百十五段の挿絵) 提供:郡山宿本陣 梶洸氏
この挿絵は江戸時代の元禄期に書かれたもので、暮露が虚無僧の前身という誤解に基づき、尺八が描かれている。しかし鎌倉から室町までの暮れ露は尺八は吹かなかったと私は考える。
『徒然草』には「ぼろんじとか梵字、漢字などと名乗りだした者」とあり、ボロボロの衣を着ているから「ボロ」では、「梵字」「漢字」の説明がつかない。
私は、梵字、漢字というからには、何かの呪文を唱える人ではないかと考えた。そこで見つけたのが「大日如来の一字金輪の呪=のうまくさんまんだぼたなんぼろん」である。
この徒然草の登場してくる「ぼろんじ」は、九品の念仏を唱えていたというのだから、念仏衆である。宿川原しとは死体の捨て場、つまり墓地だから、死者の弔いをしていた。
弘法大師空海によってひらかれた高野山は真言密教の山であるが、なぜかここに「萱堂の聖」という念仏行者が巣食っていた。「高野聖」である。彼らは一遍によって開かれた念仏宗の行者であった。真言密教の本尊が大日如来である。彼ら高野聖は大日如来の一字金輪の呪「のうまくさんまんだぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん、ぼろんぼろん」と唱える念仏集団だったのではないか、というのが私の説。