現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

施しは 徳積みの心

2022-01-06 21:38:21 | 虚無僧って?

戦前、戦後の法律でも、「乞食、物乞い」は、軽犯罪法で
禁止されている。虚無僧の門付けも法律上は禁止なのだ。

しかし、路上ライブや寄付行為などをする時は、原則
『道路占有許可』が必要なのだが、僧侶の托鉢は、
慣行で黙認されている。

本来、托鉢はタイやビルマ等の小乗仏教での「行」で、
日本の大乗仏教では、托鉢の必要性を認めていない。

明暗寺で発行している『行化之証』も、「遍く仏法を
広めるものであって、虚無僧での門付を公認するもの
ではない」と、責任を回避している。

ま、めんどうな理屈は捨てて、「物を施す喜び」、
「徳積みの心」は、法律で禁止はできないであろう。



紀州興国寺と沼津興国寺城

2022-01-06 21:37:44 | 虚無僧って?

紀州興国寺は、なんと富士山麓に勢力をもつ葛山
(かずらやま)氏によって勧進された寺だった。

葛山氏の祖「葛山五郎景倫」は、源実朝の家臣で、
実朝の命を受け中国に渡る予定だったが、実朝が
暗殺されたため、高野山に上り、出家して実朝の
菩提を弔う。その忠心に感じた北条政子が、葛山
景倫に紀州由良の地頭職を与える。

景倫は高野山で知り合った「願性(覚心)」に、
実朝の遺骨を中国の雁蕩山に分骨することを託して、
渡宋させる。

そして「願性(覚心)」が帰国すると、所領の由良に
「西方寺」を建立し、「願性(覚心)」を開山に据える
のである。

というわけで、「願性(覚心)」が開いたという寺は
「興国寺」ではなく、初めは「西方寺」だった。
中国行きを夢みていた実朝の遺志を表した名だった。

「西方寺」が「興国寺」となるのは、南北朝の騒乱が
始まって、後醍醐天皇の南朝の元号「興国」に由来
するものと考えられる。

そこで、紀州興国寺の二世「孤峰覚明」が浮かび上がって
くる。「孤峰覚明」は、後醍醐天皇の子で南朝二代目の
後村上天皇の帰依を受け、寺号を「興国寺」と賜った。
これにより、興国寺は南朝方の色彩を強める。

そして「孤峰覚明」の弟子「抜隊得勝」が、相模の出で、
甲州塩山に向嶽寺を建て、山梨、静岡、神奈川の地域に
末寺700を誇る教線を拡大するのである。

それで、沼津にも「興国寺」があった。伊勢新九郎は、
初めは沼津の「興国寺」に寄宿していたのかもしれない。

だが、伊勢新九郎が、今川氏親からあてがわれた所領は
富士山麓の富士郡 (現裾野市)である。伊勢新九郎は、まず
富士郡に居を構え、葛山氏と親しくなり、数年後に
その娘を妻にした。

沼津の興国寺に入るのは、その後、小田原に攻めるために、
葛山氏の縁助で、移り住んだのかもしれない。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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紀州興国寺は虚無僧の本山?

2022-01-06 21:37:29 | 虚無僧って?

「興国寺」といえば、われわれ尺八家にとっては
紀州由良の「興国寺」が まず思い起こされる。
虚無僧側の伝説では「紀州由良興国寺の開山、法燈
国師覚心が、唐から尺八と普化宗を伝えた」と云われて
いるのである。

興国寺側では、そのような記録は無く、虚無僧側の
勝手な創作と思われるのだが、ではなぜ、「由良の
開山」が、普化宗の祖に祀り上げられたのか。
一体誰がそのように言い出したのか。

それが、北条早雲の三男「北条幻庵」あたりではないか
というのが、私の推測である。

北条早雲は葛山氏の娘を二番目の妻にし、二人の間に
生まれたのが北条幻庵だ。幻庵は幼少の頃から京都で
学び、尺八を得意とした。幻庵の影響で、小田原北条家の
中では尺八が大流行した。

幻庵は小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされる直前まで
90年以上生きた。北条家が滅亡した後、北条の家臣の中で
帰農することもままならぬ連中が虚無僧となって、関東
各地に草庵を建てた。青梅鈴法寺もその一つだった。

北条家の当主氏直は徳川家康の女婿であったため、命を
助けられ高野山に幽閉される。そこは「小田原別所」とも
呼ばれ、かつて葛山景倫が出家した場所でもあった。

氏直は心労の末翌年には亡くなり、付き従った家臣300名が
浪人となる。その中には虚無僧となって、紀州興国寺を
頼ったか、また京都に出る者もいたであろう。

虚無僧は高野聖や時宗の徒を真似、諸国を流浪した。
高野聖のメッカ「刈萱堂」の主は代々「覚心」と称した。
虚無僧にも「覚心」の名は記憶された。

紀州興国寺は秀吉に攻められて廃墟となり、そこは
虚無僧がたむろする場所となっていた。

北条家ゆかりの虚無僧どもは、こうして、遠い記憶を
頼って、なんとなく、流祖を「由良興国寺の覚心」に
結びつけたのではなかったろうか。

というのが私の推測である。


「寅さん」第22作にも虚無僧

2022-01-06 21:37:08 | 虚無僧って?
  第22作 男はつらいよ 噂の寅次郎 HDリマスター版 [DVD]
渥美清,大原麗子,倍賞千恵子,前田吟,下條正巳
松竹


冒頭、寅さんは大滝秀治演じる虚無僧とすれ違った時に

「女難の相が出ています」と言われる。

<ストーリー>

 亡父の墓参りに来たが、早合点で大喧嘩して旅に出た寅さんは、

バスで博の父・飈一郎に会い、宿屋でのドンチャン騒ぎまで世話になった。

そんな寅さんをみた飈一郎は、「今昔物語」の話をし、人生の機微を

考えさせた。柴又へ戻った寅さんは求人募集で来た早苗を気に入ったが、

夫と別居中の早苗は、離婚届を出し自立を考えていた。そんな早苗の

ためにとらやは夕食会を開き、早苗も優しい寅さんに感謝の気持を示した。

しかし転勤の決まった高校教師・添田が早苗に会いに来た。

人生の機微を学ぶ寅さんが、幼なじみを愛し続けた男の気持を知る

シリーズ第22作。

■ロケ地/長野県木曽福島、静岡県大井川

■マドンナ/大原麗子


『おちょろ女と虚無僧』

2022-01-06 21:36:50 | 虚無僧って?

インターネット・ショップで「虚無僧」で検索してゲットした。
『おちょろ女と虚無僧』。定価1,000円が、わずか 230円で送料0。

著者は「碓井静照」。広島県医師会会長で、日本ペンクラブ会員。
広島生まれで、広島のことをいろいろ書いているようだ。

さて、「虚無僧」というから、「虚無僧」にまつわる話かと
期待したら、びっくり、がっかり。この方「虚無僧」のことを
全くご存知ないようだ。

おちょろ女が助けた虚無僧「藤太」と旅するという設定で、
あとは、土地にまつわる昔話を羅列しているだけ。
そして「虚無僧。藤太」については「小作農の七男で、
大分の臼杵寺に預けられ、小僧としての修行を積み、
経を読み、護摩を炊き、そして托鉢に」というのだから、
これではタダの托鉢僧ではないか。侍でなければ
「虚無僧」にはなれない。尺八を持っていない。
なんていうことだ。

ネットでも「托鉢僧」を「虚無僧」と思っている書き込みが
多いが、碓井氏もその一人のようだ。これを読んだ人は、
また「托鉢僧」=「虚無僧」と思うべな。

230円の意味が解った。誰も買わない、読まない本なので
こうした誤解が広まらないだろうと、少しは安心した。


心地覚心と高野聖

2022-01-06 21:36:31 | 虚無僧って?

高野聖のうち萱堂の聖は無本覚心を祖としている。高野聖とは別所に集団で居住して真言念仏や禅・時宗などを兼修しており、勧進を行ないつつ、後世には商業にも従事した。高野聖には萱堂聖・小田原谷聖・往生院谷聖があったが、このうち萱堂聖は無本覚心を祖とする。

紀伊由良法灯国師(無本覚心)80歳の時である弘安9年(1286)、一人の俗人が西方寺にやって来て、国師に「私は塵累を厭う(出家を願う)志があります。願わくは和尚の弟子として下さい」といった。そこで髪を剃って「覚心」と名づけた。弟子として師の法諱を犯すことを恐れたが、国師は考えるところがあるとして許さず、「お前は高野山に縁がある。そこに行って萱原で念仏を唱えなさい」といって鉦鼓1口を与えた。覚心は「高野山は鳴器(楽器)を禁じています」といったが、国師は「ただ私の言うとおりのままにしなさい」といったので、高野山に登って念仏した。山中の大衆は鐘の音を聞き、驚き怪しんでその音の場所を探してみると、老人が萱の中にて鉦鼓をたたいて安座念仏していた。大衆は「お前は何をしているのだ。この山は古来より鳴物を禁止している」といった。覚心は「私は由良(西方寺)の開山の教えのままにしているだけである」といった。大衆は鉦鼓を捨てたが、この鉦鼓はたちまち空中に飛び上がって山や谷に鳴り渡り、ついに覚心の座わっている前に還ってきて、叩いていないにもかかわらず自ら鳴った。大衆達も不思議な思いをした。その夜高野山検校宿老の夢に、鉦鼓を許すべきの旨は祖師明神と由良開山(無本覚心)との契約である、と見たため、萱を引き結んで堂を建てて念仏三昧の場とした(『紀伊続風土記』巻之54、非事吏別、萱堂)


瘋癲の普化

2022-01-06 21:36:07 | 虚無僧って?

虚無僧が宗祖と仰ぐ「普化」は、「師から“瘋癲”と呼ばれた」と
尺八関係の書に書かれているが、あらためて、原典の『臨済録』を
紐解いてみて、驚いた。

『臨済録』は臨済宗の祖「臨済」の言行を弟子が書き記したもの。
その序分に「この瘋癲漢、再び虎の鬚(ひげ)をひく」とあり、
さらに後段に、「瘋癲」は三度も出てくる。ここでの「瘋癲」は
臨済その人のことで、「大馬鹿野郎」という意味で使われている。

「臨済」はその師「黄檗」から「この“瘋癲”野郎!」と何度も、
鉄拳を喰らい、棒で殴られて、悟りを得るのだ。


尺八関係の書では、臨済は秀才で、臨済の相棒の「普化」は
変わり者で師の黄檗から「あいつは瘋癲野郎だ」と呼ばれた
ことになっているが、『臨済録』を読むと「瘋癲」は臨済の
ことであった。普化は「佯狂(ようきょう=狂人を偽ること)」
と書かれている。

まこと、他人の説の受け売りは怖い。原典を確かめることが肝要。






南朝と虚無僧

2022-01-06 21:35:33 | 虚無僧って?

「虚無僧」というと「隠密」というイメージがある。
「幕府の隠密だった」と断定している記述もあるが、
その事実は無い。
それは、吉川英治の『鳴門秘帖』の影響だろうが、
隠密行動をするには、あの格好は目立ち過ぎである。

「隠密イメージ」は、「虚無僧が南朝と関わりが深い」
かのように 捉えられてきたからでもある。

そもそも「虚無僧」とは、「南朝の忠臣、楠木正成の子
正勝が『虚無』と名乗って、諸国を流浪し、南朝の再興を
働きかけたから」という伝説が流布している。

これは『虚鐸(キョタク)伝記国字解』に書かれているのだが、
『虚鐸伝記国字解』は、虚無僧の由緒を正しくするために、
江戸時代の半ばに書かれたもので、その内容は創作話
であり、信ずるに足らない。

しかし「虚無僧が南朝と関わりが深い」というイメージは、
この『虚鐸伝記国字解』の作者も持っていたと云える。

『虚鐸』とは、虚無僧が宗祖と仰ぐ普化禅師の鐸(=鈴)
の音を尺八で奏でるので、尺八のことを虚鐸(キョタク)という
のだが、それを日本に伝えた日本開祖を『虚鐸伝記』では
紀州由良の興国寺とした。興国寺側にはそのような記録は
無く、迷惑しているのだが、興国寺は南朝側の寺として
知られていた。虚無僧と南朝との結びつきは「興国寺」との
縁から作られた虚像だ。

さらに南朝との関わりは「一休」である。一休の父は北朝の
後小松天皇。母は楠木正成の血を引く人であったため、
一休は南朝の残党からも天皇に担ぎ出されかねない存在
だった。それで、一休は安国寺に預けられ、足利幕府の
監視下に置かれていたのだ。一休が晩年頼った大阪の
住吉大社は、後醍醐天皇の子、後村上天皇の行在所
だった。

虚無僧と南朝との関わりは、案外「一休」の影響では
なかったかと、私は考えている。




一休の母の手紙

2022-01-06 21:34:37 | 虚無僧って?

千葉の館山寺に「一休の母の手紙」というのがあるそうです。
後世(江戸時代)の創作でしょうが、これを創った人は、
実によく「一休の禅」をとらえていると思います。

内容は、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
釈迦も達磨も自分で悟りを開いたのです。釈迦は教えを説いたといっても
一字も書き残してしはいないのです。百万巻もの経典を誦んじたとしても、
それは糞虫とおなじこと。釈迦や達磨を奴とするほどの修養を積めば、
どこぞの寺の住職などにならなくとも、俗人のままでも良いではないですか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というもの。

一休は、15歳の時、安国寺を飛び出し、西金寺の謙翁の下に
弟子入りします。謙翁は、肩書きを否定し、乞食行(こつじき
ぎょう)ひと筋の托鉢僧でした。

一休20歳時、謙翁が亡くなると、一休は寺を継ぐ資格も無し、
路頭に迷い、絶望からか、瀬田川に身を投げるのです。
その時母の声を聞いて生還します。臨死体験をするのです。

この時の状況をふまえて、この「母の手紙」が創られたと
私は考えます。

経典は釈迦の没後500年1000年を経て、後世の僧たちに
よって書かれたもので、釈迦は一字も書き残していない
のです。ならば「経典を諳んじるくらい学んだところで
釈迦のように修行をしなければ、糞虫と同じです。

釈迦や達磨をも僕(しもべ)となすくらいの修行を積んで、
人々の苦悩を救える人になれたら、どこぞの寺の住職なんて
肩書きはいらないではないですか。俗人であったって
いいじゃないですか」と、母は一休に言うのです。

ここには、江戸時代、すでに「葬式仏教」への不信と
批判のまなざしが見てとれます。


江戸時代、浪人となり路頭に迷った「虚無僧」達は
この「一休」を師と仰ぎ、寄る辺としたのでしょう。
経典も必要ない。寺も要らない、肩書きもない、教義もない。
すべては己のみ。虚無僧は「僧」であって「僧」でない、
俗人のままでいい。一休の母がいう、衆生を救うことが
できたら、どこぞの坊さん なんて肩書きはいらない。
それが 虚無僧なのです。


“偽”虚無僧も許す包容力

2022-01-06 21:33:53 | 虚無僧って?

江戸時代の初期、虚無僧は浪人の「仮の姿」だった。
『虚無僧掟書』にも「再仕官するまでの仮の棲家」とあり、また、仇と追われる側も、追う側にも、無銭で全国周遊できる虚無僧はまこと好都合な恰好だった。

やがて幕末には、無宿人や、犯罪者の隠れ家となって、悪徳虚無僧が横行し、村人を苦しめた。それで、明治政府は「普化宗」を廃宗とし、尺八を吹いて門付けすることも禁じた。虚無僧は戦前まで違法だったのである。

一方、土着信仰として「乞食(こつじき)をする人に施しをすることは、慈善、善根を積む、徳積みをすること」という考えがあった。

四国八十八ヶ寺の巡礼や、山伏、琵琶法師、高野聖のように、旅をする人も「仏に仕える仏徒」として、施しをする慣わしがあった。虚無僧もそのひとつとみなされた。

そのような善良な市民を騙すがごとき、偽虚無僧もいた。

戦後「宗教の自由」で虚無僧も解禁となった。『鳴門秘帖』や『大菩薩峠』等の映画の影響もあって、虚無僧はブームになる。

「虚無僧姿で四国遍路をすれば、お遍路さんの3倍の額の施しが受けられる」というので、四国では、虚無僧の装束一式を貸す商売まで
あったという。
そういう“ にわか偽虚無僧” が横行したため、施しをする人は「一曲お願いします」と言って、尺八が吹けないと、一般通常価格のお布施。曲を吹けたら、3倍の額の布施を出した。

“偽虚無僧”だと見破っても、布施をする。その包容力、罪人も許すのが 大師信仰 なのだ。