現代の日本の仏教各宗派は、「釈迦」から離れて、ヒンズー教の「輪廻転生」、キリスト教の「天国と地獄」、道教の「霊魂」、そして日本では「神道(山伏の山岳信仰)」など、種々の宗教を取り込んで、創造されてきたものです。戒名も法名も日本だけのもの、お寺さんの銭儲けのためのもの。
同じ「仏教」でありながら、禅宗や密教では「般若心経」を唱えますが、日蓮宗や浄土宗では「般若心経」を嫌います。葬儀の在りかたも違います。おかしいではないですか。
「霊」の存在についても、真言密教では「在る」といい、天台宗や浄土宗では「みな 死ねば“仏”になるのだから、霊が私たちに悪さをすることはありません」と安心させてくれます。禅宗にいたっては「前世も来世もない」と
一蹴します。
魂は永遠不滅で、肉体は滅びても、やがて他に宿り、生まれ変わるという「輪廻転生」説は、古代インドのヒンズゥー教の考えでした。
釈迦(ブッダ)は、この輪廻説について、「自分は 見ていないので判らない」(不説)として、「そのようなことに悩み苦しまないよう、輪廻転生から逃れるための悟り」を説いたのでした。
「自分は見たことがないので知らない」ということは、「輪廻説を容認した」という解釈と、「方便(必要あっての嘘)で認めた」、いや「釈迦は はっきりと否定された」と、三通りの解釈ができます。
釈迦の弟子達は、インドで根強い「転生説」を否定しては仏教を広められず、これを容認する立場をとりました。
その後の仏教会派の多くは「地獄、極楽がある」とする方が、この世での善行を説き、悪行を諌めるのに納得を得られ易いので、「輪廻説」を取り入れてきました。
浄土宗、浄土真宗では「悪人でさえも、阿弥陀様は浄土に迎えてくださる」と、甘い言葉で信徒を増やしました。「釈迦よりも、すべてを許し救ってくださる 阿弥陀如来の方がいい」というのです。
日蓮宗も然り。仏壇に「釈迦像」を祀ることはしません。「お釈迦様」への反逆です。
しかし最近は、“地獄極楽”を信ずる人は稀になってきたので、各宗派の基盤が危うくなってきました。
そして、「釈迦(ブッダ)は、輪廻転生を はっきり否定された」とする「断見派」が台頭してきています。私もその立場です。
とにかく、お釈迦様は、一文字も経典を書き残していません。
ただひたすら歩き、人々と交わって、人々の心の中に仏の心(仏性)を芽生えさせるよう導いたのです。
3万巻とも言われる経典はすべて、五百年も千年も後の人たちの創作です。
そんな経典なんか糞虫と同じ、寺も要らない、まして僧侶の肩書きなんてナンセンス。ひたすら市井に混じり人々に仏性を目覚めさせることこそ、本当の釈迦仏教。
その意味で「虚無僧」は寺も経典も教義もない。唯一尺八の音で仏性を呼び起こす、という点で、釈迦仏教本来の姿なのです。
原始仏教の悟りは「捨てること」「離れること」「止めること」「断つこと」。「超えること」とも言える。