現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

多劫姫のつづき

2021-06-19 20:05:25 | 会津藩のこと

家康の異父同母の妹「多劫姫」は、保科正直との間に 保科正貞北条氏重

大涼院黒田長政継室)、清元院(安部信盛室)、貞松院小出吉英室)、

高運院(加藤明成室)の二男四女を儲け、元和年(1618年)、死去した。

 

長男 保科正直は保科本家として房総飯野藩一万石で残る。

次男 氏重は、小田原北条氏の一族北条氏勝の養子となって北条家を再興する。男子なく絶家するが、その娘が生んだ子が「大岡越前守忠相」。

 

末娘は加藤明成の室。これも驚き。

保科正之が会津に移封されたとき、会津の前藩主は「加藤明成」である。

加藤明成は、伊予松山から会津40万石の太守となった加藤嘉明の子。

ちなみに、加藤嘉明は三河の出、諸国流浪の末秀吉に仕え、加藤清正とともに賤ケ岳七本槍の一人として名を馳せた。加藤清正とは同姓だが、別家。

その子明成は家老「堀主水」の出奔という失政をとがめられて改易された。三代将軍家光が東北の伊達、上杉等外様大名の抑えとして会津に弟の保科正之を派置するために無理無理改易させられた感もある。

その明成の夫人が、多劫姫の産んだ高運院。保科正之の叔母になる。

それもあってか、正之は、加藤家の家臣を多く召抱え、重用している。

萱野権兵衛もその一人。元は四国松山の出で、加藤嘉明に就いて会津まで来、

その後保科家でも奉行格で召抱えられた。幕末には家老に取り立てられている。

 

尚、私は「加藤嘉明時代の家臣禄」所持しています。

どなたか、必要な方に お譲りしたい。

 

 


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