こんな記事を見つけました。尺八吹きながら虚無僧姿で無銭旅行の後浮き沈みの放浪人生。私とダブル。その人の名は遠藤初次郎。
遠藤初次郎は明治六年、富山県に生まれた。学校を出ると上京して柾屋に弟子入りしたが、北海道に憧れて海を越えた。好きな尺八を吹きながら虚無僧(こむそう)姿の無銭旅行である。各地を転々として浦河に着いたのが、明治三十年頃。手職を生かして柾屋を始め、好きな芝居小屋を建て、高額納税者のひとりに数えられるまでになったが、持って生まれた放浪の血は鎮まらない。
明治四十五年、初次郎四十歳。二人の子どもと弟子二人を連れて樺太へ。
樺太の冬は想像をはるかに超えていた。零下三十度を下る日が続き、太陽は七時過ぎなければ昇らない。
柾屋の経営は順調に滑り出した。移住者は年を追うごとに増えている。浜はニシン漁で賑わっていた。よし、今度はニシンだ。初次郎は早速漁場を開いた。無鑑札、もぐりだが大層儲かった。食事をする暇もないほど忙しい漁場の漁師を相手
に、餅も作って売った。
大正六年、落合にパルプ工場が出来ると、それ目当ての移民をあてこんで、今度は落合へ越した。落合の町が栄えてくると、雑貨屋を開いた。スーパーマーケットともいえるような大きな店である。やがて推されて町会議員も勤めた。
島中が好景気の中にあった。各地にパルプ工場ができ、炭鉱ができ、漁場が開かれる。小学校では子どもたちが毎日のように転入してきた。それにもかかわらず当時の樺太は慢性の人手不足で、まじめにさえ働けばどこへ行っても仕事があった。給料は道内に比べて五割も高い。樺太へ!樺太へ!移民の数は年々増えつづけ、昭和二十年までに島へ渡った者は、四十万人に達したという。
しかし、やがて敗戦。身ひとつで故郷浦河へ辿り着いたのは、三十七年ぶり、昭和二十三年のことだった。初次郎七十五歳であった。