自刃した白虎隊で唯一人生き残った「飯沼貞吉」は、蘇生してから後のことを多くは語らなかった。そこで、語られた話から「定説」が作られたが、そこには抜け落ちた話があった。
飯沼貞吉は「たまたま息子を探しに来た印出新蔵の妻ハツに助けられ、背負われて塩川に辿り着き、旅館で介抱を受けた」というが、まず、一晩で婦人が 少年とは言え、重傷の男子を背負って、一晩で塩川まで行くのは不可能。また当時 塩川に旅館は無かった。
貞吉の話には、塩川に行くまでの何日間かの話が欠落している。それを補う史料が、40年ほど前、飯盛山近辺の古い農家を取り壊した際、屋根裏から古い鉄砲とともに出てきた。
それは「自分が貞吉を発見し、彼を不動滝の奥の岩屋に連れて行き、毎日食事を届けて、そこで傷が治るまで一ヶ月ほど? 匿った」というもの。
それには最後に、「飯沼氏は、農民に助けられたことを恥じて隠そうとしているのか、士族の印出ハツの名はあげても、自分にはお礼の言葉もない」と
苦言が書かれてあった。
私は、このニュースを「歴史読本」で見たが、その後もずっとこのニュースは無視され、未だに貞吉の証言だけが建て節として流布している。
最近、もっとすごい話が出てきた。貞吉は、明治元年、長州藩士「楢崎頼三」に連れられて、長州小杉(現山口県美弥市)に行き、そこで「楢崎氏」に養育されたというもの。“仇敵”長州人の庇護を受けたことなどは、彼は一切語っていない。しかし、本当だとするとすごい話だ。
長州藩士に扶養されたのは、飯沼貞吉だけではない。『八重の桜』にもしばしば登場する会津藩士「秋月悌次郎」は、落城後、長州藩士の「奥平謙輔」を訪ね、将来のある会津藩の少年達を託した。後年、陸軍大佐となった「小川亮」と 山川大蔵の弟で東京帝大総長となった「山川健次郎」は、奥平氏の庇護の下に出世したのである。
さて、飯沼貞吉は、その後明治3年、静岡の学問所に入学。
明治5年(1872年)工部省技術教場(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。最初の勤務地が長州山口県だった。
その後、国内各地で電信の開設に尽力し、1894年(明治27年)日清戦争では、大本営付き 陸軍歩兵大尉として出征。その電信技術が日清・日露戦争の勝利に多いに寄与した。
1905年(明治38年)札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。だが、会津戦争のことを人に語ることは無かったという。
「死後、飯盛山の白虎隊の墓の横に埋めくれ」と願っていたが、会津では「生き残りは恥だ。それを一緒に並べるわけにはいかねぇべ」と少し離れたところに墓が立てられた。それほど、生き残った者は「死に損ない」と侮蔑された時代だったのだ。