現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「西郷四郎」実子説の再考 その2 

2021-07-07 13:35:40 | 「八重の桜」


さて、実子説を否定する根拠は、「伊与田きみ」は
慶応2年「遠山主殿」と結婚している。慶応2年なら
「四郎」を産んですぐ。四郎が生まれたのが 慶応3年
1月となると、実子説は はなはだ不可思議となる。
そして、遠山主殿の子も宿し、一女「つや」を産んでいる。

「遠山主殿」は「遊撃隊・伊右衛門(350石)」の倅で
慶応4年6月12日、父とともに白河和田山で戦死した。
父58歳、主殿31歳。

会津戦争が終わった明治元年の10月に「頼母」と
「きぬ」は結婚したという話もあるが、頼母は出奔して
箱館に行っていたのであるから、ありえない。

夫「遠山主殿」と舅を失った「きみ」は、実家に戻り、
明治3年「伊与田家」の人たちと一緒に 青森県上北郡の
伝法寺村に移住する。「上北郡」は盛岡藩だったが、
斗南藩として分け与えられた土地である。当時の記録に
「伝法寺村」に移住した会津藩士として「伊与田善助」の
名がみえる。(また「田名部村」には「伊与田為義」とある)


「そこで箱館で捕えられ津軽藩のお預けとなっていた頼母と
劇的な再会をし結婚する」という話もあるが、「頼母」は
榎本武揚らとともに東京に護送され、館林藩にお預けに
なっていたはずであるから、これも作家の創作話のようだ。

ただし、後年、明治21年「四郎」を分家して「西郷家」を
継がせた」という日記に「本籍・伝法村」とあるのは
どう考えたらいいのだろうか。

賊徒、囚人の身で館林藩に預けられていた「頼母」である。
謹慎が解けても、一家は全滅、会津の家も焼かれ、帰る家は
無かった。その時「頼母」が頼ったのは「青森県上北郡
伝法寺村」に居ると判った「伊与田きみ」だったのだろうか。


「頼母」は 明治3年(1870年)館林に謹慎中?「保科」と
改姓する。しかし、そう自称しているだけで「戸籍上」では
ない。明治新政府によって戸籍が作られるのは、明治5年
以降である。(いわゆる「壬申(じんしん)戸籍」)。


そして明治5年(1872年)「頼母」は、伊豆で 依田佐二平の
開設した「謹申学舎」の塾長として迎えられる。その時、
「頼母」は伊豆に「きみ」を伴っているのである。
明治5年、「謹申学舎」の生徒「依田勉三」と「頼母・きみ」の
三人が一緒に撮った写真がある。(『会津会会報』第114号 平成20年)

明治5年9月23日、「四郎」の養父「志田貞二郎」が
38歳で亡くなる。この時「四郎」6歳。津川の小学校に
あがる。明治6年には、全国で戸籍が策定されるので、
「四郎」は津川の「志田貞二郎」の三男として届けられた。


明治8年(1875年)「頼母」は 都都古別(つつこわけ)神社
(現・福島県東白川郡棚倉町)の宮司となるが、明治10年、
西南戦争が勃発すると、西郷隆盛との交遊があったため、
謀反を疑われ、宮司を解任される。

そこで「頼母」と「きぬ」は一子「吉十郎」を連れて 一時、
会津に帰っていたのではないかと私は推論する。

そして、津川の「志田家」に預けていた「四郎」のことを知り、
引き取って面倒をみたのではないだろうか。この時、「四郎」は
まだ12、3歳。父「志田貞二郎」は明治5年に亡くなっていた。

明治12年8月、頼母の一子「吉十郎」が亡くなる。
「保科家」の戸籍では、このわずか10日後の8月19日
「四郎」を養子に入れているのである。この「保科家」の
戸籍は、この時点では無かったはずである。後述する
明治21年ではなかろうか。この時「西郷頼母」の本籍地は
まだ「青森県の上北郡伝法寺村」にあった。養子にしたと
しても、正式に「伝法寺村」の役場に届けたかは疑わしい。


明治13年、「頼母」は日光東照宮の神職になったが、
この時は「四郎」は同行していない。「四郎」は会津に
取り残されたことになる。

明治15年3月「四郎」は 友人の佐藤与四郎とともに
上京する。「陸軍大将」を夢みて、郷土の先輩「竹村庄八」を
頼って、徒歩で上京した。しかし、16歳の少年で、
身の丈わずが5尺(150cm)。読み書きもロクにできなかった。
そこで「竹村」に「無理」と諭される。「竹村」は慶応義塾に
通っていた。

「四郎」は 陸軍士官学校をあきらめ、加納治五郎の柔道塾に
住み込みで弟子入りする。その時の姿は、髪はボウボウ、
着物はボロボロ。「スダスロウ」と名乗るが、聞き取れな
かったという。(会津弁ではシとスがはっきりしない。
福島はフクスマとなる)。

この時「志田四郎」と名乗っているということは、まだ
戸籍上も養子として入籍されていなかったことになる。
「講道館修行者誓文帖」には「福島県越後国蒲原郡清川村
43番地、志田駒之助 弟、士族 志田四郎 14歳 
明治15年8月20日」と書き、なぜか「15歳」と
訂正している。「志田家」の戸籍では「慶応2年」の
生まれだから「16歳」のはずだが、1、2歳、若く
ごまかしている。身長が低かったためか。


「志田家」の戸籍から抜かれたのが、明治17年。
その時から「四郎」は、正式に「西郷」を名乗ったので
あろう。

その明治17年、「頼母」は日光に居り、「四郎」は東京に
居たので、「養子縁組・入籍」は、手紙でのやりとりで、
「伊与田」氏を通じて、本籍の「伝法寺村」の役場に
出されたと考えられる。


「伝法寺村」は 1889年(明治22年)滝沢村などと合併して
「四和村」に。その「四和村」は 1955年(昭和30年)
「三本木市」に編入された。

さてさて、『会津会会報』第114号(平成20年)に
「西郷頼母ときみが明治19年横浜で撮った写真」が
掲載されている。撮影者は、先の明治5年、伊豆で
撮った時と同じ「鈴木真一」。「頼母」の妹「美遠子」の
夫で、横浜で写真業を営んでいたという。

明治19年、「頼母」は日光東照宮の禰宜であったが、
こうして横浜まで出てくることは可能であったようだ。






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