『会津史談会』会誌 第23号(昭和18年2月)で見つけました。
「飯沼貞吉」が逓信省に勤めていた時の話です。
(昭和15年10月8日付「読売新聞」に掲載されたという「八木鐘次郎氏」の談話を 要約しました)。
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時は明治27年7月25日、朝鮮半島の豊島沖で 日清戦争の火蓋が切られた。そのニュースは「釜山電信局」からただちに東京に送られた。だが、日本軍はすでに 仁川、京城まで進んでいるが、海岸線には支那軍が上陸していて、陸路の通信は途絶えていた。
そこで、電信敷設の任に当たったのが「飯沼貞吉」改名して「飯沼貞雄」。彼は 300名の人夫を連れて、敵地の中を京城まで電信設備の敷設という難事業に向かった。
出発の時「危険だから、ピストルを持って行くように」と仲間に言われたが「飯沼貞雄」は「私は白虎隊で死んでいるはずの人間ですから、命は捨ててますよ」と 笑って答え、「元気で行ってきます。きっとやりとげますよ。船を使わんでも、東京と通信ができるようにしてみせますよ」と明るく旅立っていった。
白虎隊生き残り「飯沼貞吉(雄)」の決死の電信設備の敷設が、日清戦争の戦況を逐一東京に伝え、勝利へと導いたのだった。
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日本の電信(電報)事業は明治3年1月、東京と横浜間の開通に始まる。電信網の全国整備に伴い飯沼貞吉は技術専門家として東奔西走する。明治6年には東京から長崎まで1340kmが開通。
飯沼貞吉は明治5年10月に下関電信局(赤間関)に勤務し、明治6年4月に小倉電信局に転勤した。
アジアで電信を独力で構築した国は唯一日本のみで、その後の通信大国への基礎となった。そして逓信省仙台逓信管理局工務部長を最後に大正2年(1913年)60歳で退官、正五位勲四等に叙せられている。
昭和6年(1931年)2月12日没、享年77歳。