『日本のいちばん長い日』映画にもなった。
私の叔父、牧原源一郎は、運輸大臣「小日山直登」の秘書官だったので、
『小日山直登氏を偲ぶ』という本を出して、当時のことを書き残しています。
牧原源一郎 小日山直登 運輸通信大臣
「8月14日は 午前10時から閣議が開かれる予定なので、各大臣は総理官邸に集まっていた。そこへ、「全員 即刻参内せよ。平服でも苦しからず」と。豊田軍需大臣、太田文部大臣は開襟シャツだったので、「いくらなんでも、陛下の午前にこのままで出ることはできない。君のを貸せ」というので、私は早速脱いで、ワイシャツとネクタイを差し上げた。両大臣はそれを着けて参内された。
そのため、私は一足遅れて宮内省裏玄関に駈け付け、そこで待機していた。しばらくして、皇族方を始め重臣閣僚が大勢戻って来られた。皆、真っ赤な顔に涙が光っていた。実にこの時、ご聖断が下り、陛下のお諭しがあったのである。
(中略)
夜になって、そのことが過激派青年将校の側に洩れたので大変なことになった。
「腰抜け重臣閣僚を屠れ。神州不滅、最後の一兵まで戦え」というようなビラを
撒き、決起した。私はなんとしても大臣を護らねばと、白鞘の短刀を握りしめ、
「もしもの時は、私がこれを振り回して防ぎますので、その隙に逃げてください」と大真面目でいうと、小日山大臣は笑って、「そんなもので防げると思うのか」と、泰然としておられた。
「総理官邸が暴徒に襲われた」と一報がはいり、大臣は早速官邸に車で駈け付けた。下村情報局総裁が、坂下門で拉致され行くへ知れず。
近衛師団長が射殺されたとか、阿南陸相が割腹自殺されたとか、情報が乱れ飛んで、どれが正規軍の報道か反乱軍の報道かわからない。陛下の録音盤は一体どうなっているのか、それさえわからない始末だった。
15日の朝、小日山大臣は 阿南大将自決の場へ駈け付けて、大将の死を悼まれた。昨夜、総理官邸での閣議を終えてから、阿南大将は血走った顔をして、幅広の軍刀をガチャつかせて、総理の室に入っていかれるあの姿を私はこの目で見ているのである。定めて、総理に最後のお別れの挨拶であったと思われる。息が絶えたのは恐らく明け方のことであったろうと思われる。実に立派な武人であったと感に堪えない。
その後も、阿南大将と親しかった小日山大臣は二回も私宅を訪ねてご遺族を慰めておられた。
「阿南大将は死んで陸軍を収めた。米内大将は長らえて海軍を収めた」と述べられている。
この日の正午までは、実に長い一日であると思われた。
(以下略)
まさに、映画の『日本のいちばん長い日』そのまま、
こんな記述も
「小日山大臣は会津武士だから、敗戦の責任を負って 腹を切らないとも限らんから、君はよく注意していてくれ」と心配してくれる人もあったが、そのことを話すと、大臣は「俺はそんなことはしないよ」と。
それ以前、10日の記述では、「小日山大臣は会津人なので徹底抗戦派かと思われていたが、私には『戦争ができなくなって降伏するのに、条件つけて何になるか』と言っておられたところを見ると、鈴木総理と同じく、この機を逃さず 終戦に持ち込む決意であったと思われる。