「虚無僧」は、いつ頃から使われるようになったのか。
室町時代、山口を支配していた「大内氏」の法令集『大内氏壁紙』が初見だという。
(パソコンやケータイの最初の画面を「壁紙」と云うが、室町時代「壁紙」とは、お定め書、掟書きのこと)
『大内氏壁書』の原本は、山口県下関市の「市立長府博物館」に在る。それを活字化した『岩崎俊彦著大内氏壁書を読む』(大内文化探訪会)が刊行された。
それには、「虚無僧(こむそう)」ではなく「薦僧(こもそう)」と書かれていた。
「文明18年(1486)4月20日付禁制」
『第90条 薦僧(こもそう)放下、猿引の事』として
一、薦僧、放下、猿引事、可払当所并近里事
薦僧(こもそう)は尺八を吹いて放浪していたから、曲芸師の放下僧(ほうげ)や猿回しと同様の旅芸人として扱われ、「当所(山口の城下)並びに近在の里でも払うべきこと」。つまり=追い払えと云っている。
文明18年(1486)とは、足利義政の世、銀閣寺が建てられた頃。
一休は文明13年(1481) 88歳で歿している。その5年後の事。
「薦僧」は西国山口まで往来し、不審者として追い払われる存在だった。「薦僧」が一般名詞になっていることは、全国的にもかなりの薦僧がいたと考えられる。
室町時代の「薦僧」。腰に薦を負っているから「薦僧」と呼ばれた。
「三十二番職人歌合」に描かれた「薦僧」。やはり後ろに薦(菰むしろ)が