『とはずがたり』は、鎌倉時代、後深草院の寵愛を受けた「二条」という女房が、自らの半生を赤裸々に告白した文芸作品です。
原本は宮内省の図書寮に永く眠っていて、公開されたのが、戦後の
昭和25年ですから、『源氏物語』や『更科日記』『蜻蛉日記』ほど、世間一般には知られていません。
それを元に、「瀬戸内寂聴」が『とわずものがたり』と題して
「婦人公論」に連載したのは、昭和45年(1970)でした。
『とはずがたり』とは「問われぬままに 一人語りする」という意味。
2歳で母に死なれ「後深草院」の元に預けられていた「二条」は、14歳の時、後深草院に犯され妊娠。 その後も皇族や貴族と次々と関係を結んでいくという内容ですから、戦前、戦中はとても公開できなかったのでしょう。
平安時代から、室町時代までは、フリーセックスは自然の姿だった
ようです。それを糺したのは、徳川二代将軍「秀忠」です。彼の妻は
「お江与」。恐妻家でしたから。
さて、この『とはずがたり』の巻四に「ぼろ」が出てくるのです。
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正応2年(1289)、二条は37歳。出家して尼となり、諸国遍歴の
旅に出ます。熱田宮、三島大社に詣で、鎌倉に行き、鎌倉幕府の
要人とも親しくなり、浅草、善光寺と旅をします。
そして「ある時は僧坊に留まり、ある時は男の中に交わる」と言いながら、その先
「修行者といひ、“梵論梵論(ぼろんぼろん)”など申す風情の者と
契りを結ぶ例(ためし)もはべるとかや聞けども、さるべき契りもなく、徒(いたずら)にひとり片敷きはべるなり」と独白しているのです。
つまり、旅に出れば、修行僧や「梵論梵論」などという風情の者とも
契りを結ぶというが、そんなことは無かったと言っているのです。
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さて、「暮露(ぼろ)」は「ボロ」の着物を聞いている乞食などと一般に思われてますが、違います。『七十一番職人歌合』に描かれている「暮露」は白い紙衣に黒の袴。清楚な衣装です。
また『徒然草』にも「梵論」「漢士」と記されていることから、私は次のように推測しました。
「梵論梵論(ぼろんぼろん)」とあることから、「ボロ」は、ぼろを着ていたからボロ」ではなく、「梵字」に関係することば。
それは「大日如来の一字金輪の咒=のうまくさんまんだ、ぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん」と唱えていた念仏者ではないかと推察されるのである。