現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「西郷頼母」の謎、イッキに解消!?

2021-07-07 13:33:49 | 「八重の桜」

ネットで見つけた★季刊誌『暗河(くらごう)』1975年春号
「西南の役特集」■第二次革命を盟約した薩摩西郷と会津西郷

この内容は、実に衝撃的。これまでの「西郷頼母」の疑問点を
イッキに解消してくれる内容である。

「西郷頼母」の謎
①会津籠城戦が始まると、忽然と姿を消した理由
②敵の包囲網を潜り抜けて 米沢、仙台まで無事たどりついたこと
③箱館で実弟の「山田陽次郎」と落ち合い、行動を共にしていること
④何の目的で箱館まで行ったのか
⑤その後「館林藩」に幽閉されたが、なぜ一人だけ「館林藩」だったのか。
⑥明治5年には伊豆にいたが、何故伊豆に行ったのか。
⑦その時「伊与田きみ」を伴っているが、いつどこで「きみ」と一緒になったのか
⑧一子「吉十郎」の所在は?
⑨明治10年、西南戦争が始まると、西郷隆盛と通じていたということで
「都都古分神社」の神職を解任されているが、本当に「隆盛」と親交が
あったのか
⑩志田四郎を養子にした理由と入籍の時期


まず、城を抜け出して出奔したのは、藩主「容保」から 極秘に
「和平工作の道」を託され、「西郷隆盛」と会うためだった。
「頼母」は越後口で「隆盛」に会って、会津開城への道筋を
協議した。

米沢への道は、米沢藩によって閉鎖されていたにもかかわらず、
米沢を経て仙台まで行けたのは、「隆盛」の手助けがあった。

箱館にまで行ったのは、西郷隆盛と通じていたことを隠すため。
箱館からは特別待遇で東京に護送されており、「館林藩」へは
西郷隆盛の指令で、「生田万」の事跡と書き残した文書を調べる
ためだった。


明治3年には、幽閉が解かれ、斗南藩へお預けとなる。それで
「頼母」は青森県上北郡伝法寺村に移住していた「伊与田きみ」を
招きよせ、結婚した。

そして明治5年の伊豆行きも、西郷の指令で、鉄砲製造基地の
調査のためだった。

一子「吉十郎」は、西郷隆盛の援助でアメリカに留学しており
西南戦争では西郷軍として参加していた。

西郷頼母が支援物資を送ろうとしていたのは、一子「吉十郎」へ
届けるためだった。


頼母が隆盛の支援を受けていたとなると、これまでの疑問点は
イッキに解決する。だが、薩摩憎しの会津藩遺臣の手前、
それは ひた隠しにしておかなければならない秘密だったのだ。

でも「吉十郎」が アメリカに留学したという事実があったのだ
ろうか。なぜ今まで誰も知らなかったのだろう。



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