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現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

光秀謀反 もうひとつの理由

2011-02-14 23:12:07 | 虚無僧日記
「本能寺の変」の首謀者は、光秀ではなく、家臣の「斉藤利三」という
説がある。春日局の父だ。斉藤利三は、秀吉によって捕らえられ処刑され
たが、その子や、利三の兄たちが 長宗我部を頼って土佐に逃げてきている
という事実。そういえば、たしか 坂本龍馬も「先祖は本能寺の変の後、
近江坂本から逃れてきて『坂本』姓を名乗った」という。坂本龍馬の
家紋も「桔梗(ききょう)」。これは土岐一族の「紋」だ。

当初、信長は、光秀に 四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は、
斎藤利三の兄「石谷頼辰」を度々四国に派遣し、その妹を長宗我部元親に
嫁がせるまでこぎつけたが、信長は、武力で平定するよう方針変更を
光秀に命じた。

それが、安土城内での「信長と光秀の諍い事件」の真相であるという。
斉藤利三としては、妹を嫁がせているのだから 承服しがたい。そして、
信長の子「信孝」を総大将とする軍勢が、堺に集結したのが6月3日。
四国へ渡る準備をしている翌4日未明「本能寺の変」が起きた。これで
四国への渡海は直前で停止する。

そして、2週間後には、光秀が敗れ、斉藤利三の兄「石谷頼辰」等は、
一族を連れて、長宗我部氏を頼って落ち延びたのだ。これにより、
長宗我部は一時的にも難を逃れることができた。土佐には、関が原後、
家康によって山内氏が移封されてくるまで、四国は長宗我部の天下
だったのだ。

「龍馬伝」でも描かれていたが、土佐では、旧長宗我部の家臣たちは、
下士として、足軽以下の差別を受けてきたのだ。


詳しくは「明智憲三郎」氏のホームぺージ

「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

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1 コメント

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こんばんは。 (宴乃桜)
2011-02-15 02:17:00
いつも楽しく拝読しています。
このブログの歴史部分だけ抜き取って、歴史エッセイ集を出されては…?

当愛媛県には、西日本では規模の大きい神社、通称「椿神社」があります。ここの神主さんは、長宗我部氏です。
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