現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「臨死体験」で仏に会う

2022-01-22 21:05:03 | 心の問題

以前NHKラジオで「臨死体験」についての話があった。
今、医学の進歩で、心肺停止から蘇生する事例も多くなり、蘇生した人の「臨死体験談」が世界各国で研究されているとのこと。

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Wikipediaで検索してみました。

臨死体験者からは「光体験、人生回顧、知覚の拡大」などが報告される。臨死体験者は、それを“宗教的なもの”とは感じておらず、スピリチュアルなものだと感じており、体験後は、既成の特定宗教の立場を離れ、より普遍的な宗教心の探究へと向かう傾向にある。

臨死体験者はその体験後、全体的に健康状態が向上する傾向にあり、ヒーリングの能力を得たという人も何割かいる。

と、なるほど、私の母もそうかもしれない。母は、40代の時、乳癌で「3年の命」と宣告され、入退院を繰り返した後、ヒーリングのパワーを身につけ、それから40年、病院に一度も行ったことがなかった。最後は自宅で、朝起きて、会話をしているうちに、すゥーとこと切れた。

Wikipediaではさらに、

日々の《当たり前のもの》を評価するようになり、思いやりが増し、物質主義から離れ、精神的なものを志向するようになるなどの変化が現れる傾向がある。

多くの体験者の報告では、“未知の光”に遭遇し、この光は人格を持っており、「自分のすべてを知りつくされ、理解され、受け入れられ、赦され、完全に愛しぬかれる」体験が起きる。


江戸時代に 臨死体験した人の話しで、「お坊さんの言う話はみんな嘘だった」というのがある。「賽の河原も針の山も無かった」と。

地獄絵図は人が創作したもの。しかし、未知の光こそ「み仏」の姿ではないか。

他人を傷つけ、殺めた人は、傷つけられ殺された人の視点からその体験を味わい、罪を悔い改めるという。これは「親鸞」の話にも通じる。

そして、蘇生した人は、「他者への思いやりや、自己への責任感が飛躍的に強まる」と。

殺人者は、死後、あの世で自分に殺された人に会う。それこそ怖い。そう思うと、他人をいじめたり、貶(おとし)めたり、まして殺したりなどできなくなるではないか。現世で 人に優しくしておけば、死ぬのも怖くない。

臨死体験者が見た世にも恐ろしい13の地獄の幻影 : カラパイア



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2 コメント

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iands(国際臨死体験研究学会)会員です (k)
2013-03-03 20:29:11
25年会員です。日本人では誰も光が仏陀だと言わないし皆、見当はずれな人ばかりですので沈黙していました。光は仏陀と言うより仏性です。なぜ、このように断言できるかというと、すでに1943年に1974年出版のムーディーのlife after lifeから1998年のk.ringのlessons from the lightまでの臨死体験の典型的パターンを先取りしたイギリス人がおり、その人は数百回光の体験をして1981年に亡くなっています。その文献は1万7千ページのノートとして死後出版されました。その内容を読めばキリストや仏陀がこの光の具現化であることがわかります。仏教では法身と呼ばれ奈良の大仏などが象徴として表現されたのです。つまり、死ななくても光はどのような人の前にでも現れることができ啓示を与えられるのです。これが妄想ではないという客観的証拠は沢山ありますが、関心なき、あるいは、この一種の地獄のような世界にいてそれと気づかず救いを求めない人間にこの話をするのは時間の無駄です。
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至高善について (k)
2013-03-04 12:52:00
私のように長く勉強していて、もともと肉体を離れた意識の実在を信じられる傾向を持って生まれた者ですら、この世の残酷さを見ると、また自分で身をもって体験すると神などこの世に存在しないと言いたくなります。この世は悪人が減少しても、あるいは0になったと仮定しても十分苦しい世界であり、そもそも食料を得ることが簡単ではないことからも証明されます。例えば、野菜の中で最も生産性が高いケールは普通の野菜の数倍の収穫量と栄養価があります。また、その高い栄養価は牛乳の代用になり、むしろ牛乳より骨量を増やせ、多くの病気を治す薬になるのです。この野菜はポルトガルの飢饉を助けた野菜であり、アメリカは戦時中、この野菜を栽培することを推奨しました。しかし、この野菜(実際は草木であり木に近い)ですら実に多くの敵(青虫、アブラムシ、ヨトウムシ、コナガ、マイマイ、なめくじ、ムクドリ、ヒヨドリ等)が存在し、ケールを死滅させようとするのです。その上更に病気の問題、台風の脅威があります。簡単に栽培できるケールですら、このように栽培が困難な世界では、与えることより奪うことが日常なのは当たり前です。世界の競争原理と適者生存、もがき、争いを日常化させたのは人間の自由意志ではなく、人間を超える存在の作ったシステムによることは、少し考察してみれば自明の理だと思います。臨死体験者も仏教も光の自己表現であるこの世界は「至高善」へ向かっていると言うが、それが何なのか答えません。悪い事をする人たちですら、世界に元から存在する手本を見習っていると言えると思います。ですから、彼らは彼らが考える神格を信じないのは無理ないことだと思います。
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