大黒屋光太夫は、「日本人で最初にロシアを見てきた人」との触れ込みだが、
伊勢白子の船頭・黒屋 光太夫(1751年 - 1828年)が遭難したのは 1782年。
アリューシャン列島に漂着し、ロシアの帝都サンクトペテルブルクで 女帝
エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の1792年に
帰国した。
光太夫がロシアに流れついた時、そこには、日本語を話せる人がいた。
なんと、彼よりも先に、何人かの日本人が漂流しており、帰国をあきらめ
現地の女性と結婚したりして、その子供等がいたのだ。光太夫もどれだけ
心安かったことか。
その一人が、鹿児島出身の「ゴンザ」。
ゴンザは、薩摩藩第5代藩主・島津継豊の命を受けて、若潮丸に乗って
大阪に出帆したのは1728年。乗組員は17名。その時、彼はまだ11歳の少年。
船は折悪しく嵐にあい、半年余り太平洋を漂流し、カムチャッカに漂着。
しかし、コサックに襲われ、15人が殺され、生き残ったのはゴンザと、
35歳のソウザの二人だけでした。
露日辞典の編纂
2年後の1731年、二人はモスクワへ送られ、さらに2年後の1734年、
ベテルブルクでアンナ・ヨアノヴナ女帝に拝謁。
女帝は、ロシア語を流暢にしゃべるゴンザ少年に感銘を受け、科学アカデミーで
ロシア語文法を学ばせ、日本語教師に就かせた。そこで、ゴンザは、
1万数千語もの語彙を集めた『露日語辞典』を執筆。彼は日本に帰れぬまま、
22歳で異国の地に没した。