新宮に行った時、図書館で、水野家の藩士録『物成帖』を
見せてもらいました。有りました。
1647年の項に「牧原勘右衛門 150石」。1659年の項に
「牧原仁左衛門 150石」と、二人の名前が。
「牧原仁左衛門」は、勘右衛門の家督を継いだ長男でしょう。
そして、当家の「系図」では、「牧原勘右衛門」の次男
「市郎兵衛直良」は「1627年、紀州和歌山で生まれ、
1643年 16歳で会津保科家に小姓として仕える」とある
のです。
平石彦右衛門--平石(牧原)勘右衛門--牧原仁左衛門
|
|-牧原市郎兵衛直良(会津藩へ)
この「市郎兵衛直良」以降は、会津藩の記録『家政実紀』に
時々記録されていますので、判ります。
では、兄の「牧原仁左衛門」は新宮に残ったのでしょうか。
その後の新宮には「牧原姓」は居りません。
しかし「平石」姓が 電話帳で調べて、新宮に9軒ありました。
現在、新宮に住まわれている「平石」さん。先祖のことを
ご存知でしたら、ぜひ教えてください。
和歌山県の田辺市立図書館に『新宮藩御勘定方旧記』という
古文書があった。虚無僧で行って見つけた。水野家の常陸時代、
遠州浜松時代、そして紀州新宮時代の「与力」の知行高が
記されている。
「徳川家康の第10子「頼宣」は、2歳の時、慶長8年(1603)
常陸水戸20万石の藩主に任じられるが、まだ幼児のため、
「水野重仲」が 御附家老となり、名代として水戸へ派遣される。
その時、水野重仲の「与力(加勢・協力者)」として12名の名が
載っているが、その中に「平石・牧原」の名はない。
その6年後、慶長14(1609)、浜松の桜井松平忠頼が 旗本同士の
喧嘩の仲裁にはいって殺され、改易(お家断絶)されたことにより、
水野重仲が浜松城主となり、常陸から転封してくる。その時、
浪人となってた旧松平忠頼の家臣を何人か召抱えたとある。
その中に、当家の祖「平石彦右衛門」がいたことになる。
その10年後の元和5年(1619)、徳川頼宣が紀州55万石の
太守に任じられ、浜松の水野重仲は、御附家老として紀州
新宮に3万5千石を拝領。「平石彦右衛門」の子「平石勘右衛門」が
新宮に移籍する。その「勘右衛門」が新宮移籍に際して「牧原」と
改姓しているのである。
その8年後、1627年、「勘右衛門」の三男として「牧原市郎兵衛」が
生まれる。この「市郎兵衛」が、16歳の時、1643年、会津藩祖
保科正之に仕え、御使番となっている。
1 平石彦右衛門 ・・・・・1609年 浜松城主「松平忠頼」から「水野重仲」へ
2 平石勘右衛門・・・・・・1619年 浜松から新宮に移籍して「牧原」と改姓
3 牧原市郎兵衛・・・・・・1627年 勘右衛門の三男として紀州で生まれ、
1643年 17歳の時 会津藩へ
4 牧原只右衛門・・・・・・1658年 会津藩江戸の芝屋敷で生まれる
「牧原市郎兵衛」が会津藩に召抱えられた年、1643年は、家光の弟
保科正之が出羽山形から会津23万石の太守となった年で、この時、
藩士の大量採用があった。一方、紀州藩では、家臣のリストラを断行
しようとしていた。双方の事情が合致した移籍したものである。
尚、父親の「牧原勘右衛門」は新宮に留まっていたようで、1647年の
「物成帳(家臣録)」に「150石、妻は井出三左衛門(300石)の女」とある。
また1659年の「物成帳」にも「牧原仁左衛門(150石)」とあり。
会津へ移ったのは三男の「市郎兵衛」だけで、「仁左衛門」は 新宮で
家督を継いだ長男か次男かと思われる。その後断絶したか、新宮に
「牧原姓」はいない。
ただし、電話帳を見ると、現在 「平石」姓が9軒もある。「牧原」と改姓
した「勘右衛門」は三男だったから、その兄たちの子孫か。ぜひ先祖の
こと、知っていれば教えていただきたい。
当家の系図の一番最初には「平石彦右衛門。浜松城主・
松平左馬介忠頼に仕え、奉行格、禄500石」とあります。
そこで「松平忠頼」について調べてみました。
「忠頼」は、愛知県安城市桜井を本拠とする「桜井松平」の
7代目当主でした。
「桜井松平」は家康の曽祖父「信忠」の弟「信定」を
祖とする 松平の分家。
「信定」から三代目の「忠正」の時、1572年 三方ケ原で、
家康が武田信玄に惨敗。明けて天正元年(1573)正月、
信玄が野田城を包囲した時、「忠正」は野田城におり、
武田の捕虜となる。その後、信玄は病に倒れ、4月に死去。
「忠正」は人質交換で帰還する。
その功により「忠正」は、家康の義妹「多劫姫」を妻とし、
天正5年(1557)「家広」をもうけるが、その年37歳で死去。
そこで「多劫姫」は、「忠正」の弟の「忠吉」と結婚し、
天正10年(1582)「忠頼」を産む。ところが、この年、
「忠吉」も死んでしまう。
天正10年は、武田が滅び、織田信長も本能寺の変で
明智光秀に討たれるという、大混乱の年。
甲斐、信濃は、武田の後、今川、北条、徳川勢が入り乱れて
混乱する。保科正直は、初め、北条に就いて、妻子を人質に
差し出していたが、後、徳川に寝返っため、妻子を殺される。
そして「正直」は家康を頼って、安城に来ていた。
それで「多劫姫」は「保科正直」に再々嫁させられたのでした。
「保科」は高遠の“一地方豪族”という思い込みがあったので、
安城の桜井松平に嫁いでいた「多劫姫」がどうして、信州まで
行ったのか、疑問に思っていた。「保科正直」が、安城に来て、
居館を構えていたとは、知りませんでした。これで納得。
慶長5年(1600)の「関が原」の時は「松平忠頼」18歳で
家康に従う。美濃金山1万5千石から、翌年には浜松5万石
と、松平諸家の中では最高の出世である。
当家の系図の冒頭に「三河、松平郷・牧原の出」とあるが、
その「牧原」の地を探し求めて半世紀。豊田市の東、「くらがり
渓谷」の手前に「牧原」というバス停を見つけました。
そして『三河国額田郡誌 全』大正13年 額田郡役所発行 に
次の記事を発見。
P.331 「宮崎村・石原字牧原に不動の瀧在り。本宮山北麓より
流下する乙川の清流、懸って 丈余(一丈=10尺=約3m) の
瀧となす。幽寂なる四囲と共に、夏なお寒きを覚ゆ。同所に祀れる
不動尊は武田信玄の守り本尊なりと云ひ伝ふ。傍らに碑石あり」
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さてさて、三河の松平郷近くの「宮崎村・石原・牧原」(現豊田市)に
なぜ「武田信玄の守り本尊」だったという不動明王像があるのか。
ここからは、想像ですが。
武田の末流に「武川衆」というのがあり、その中に「牧原」姓の者もいた。
彼らは、国境周辺に出張って、諜報活動もしていた。武田信玄は
元亀3年(1572)12月、浜松の徳川家康を 三方原(静岡県浜松市)に
おびき出して破り、翌元亀4年、野田城を攻めたが、その時、城内から
発せられた鉄砲玉に当たって負傷し、鳳来寺山で一ヶ月静養。
病はますます重くなり、甲州に引き返す途中で死亡した。
遺体は諏訪湖に沈められたとも。
鳳来寺を武田が占拠していた時、武川衆の牧原が、ここ宮崎村に
に来たのではないか。その7年後の天正10年、武田勝頼が滅亡した後、
武川衆は徳川に臣従している。側用人として出世した柳沢吉保も
武川衆の一人。
当家の祖は、武田勝頼滅亡以前、信玄が死去した後に桜井松平家に仕官し、
後「水野重仲」、そして会津保科松平家に仕えた。
「牧原の先祖さがし」について、岡山在住の方から情報をいただきました。
なんと、岡山や広島にも「牧原姓」があるとのこと。
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父方の祖母の家系が、岡山藩やその支藩「鴨方藩」の元藩士です。
先祖は「鴨方藩主・池田家の守役」で5~600石取り。
また、広島藩浅野家の家老で「三次(みよし)代官の家系も
牧原姓です。その子孫は現在、広島市内の神社で神主を
しています。、安芸武田家の時代に中国地方に移って来たのか、
甲斐武田家滅亡の折に他家士官となったものか。
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いや、驚きです。以前「三次(みよし)市」の教育委員会主催で
尺八の演奏と公演に招かれて、行ったことがありました。まさに
先祖の霊に呼ばれてのでしょう。
というわけで、甲斐の武田の一族が広島にも移り住んで「安芸
武田家」というのがあること。その藩士に「牧原姓」がいたことを
初めて知りました。
Wikipediaによると
鎌倉時代の承久三年(1221)の承久の乱後、武田伊豆守信光が安芸守護に補任されている。
しかし、武田氏は甲斐国が本拠であり、安芸には代官(守護代)を送って在地支配を行っていた。
武田氏が安芸に下ったのは、建武の親政が成った建武元年(1234)、武田兵庫介信武が
安芸守護に補任されて以降。
南北朝争乱の時代、信武は足利尊氏に属して各地を転戦し、尊氏から安芸守護の地位を安堵された。
ということで、「芸州浅野家の家臣録」に「牧原姓」おりました。
牧原栄作………三次鉄方帖元⑳210
無役卒族267
牧原喜真太……天保10(1839)宮内少輔様用達役
③57B14
安政5(1858)歩行頭次席③63A28
(権左衛門)
牧原広右衛門…無役卒族312
牧原清次郎……所々番所詰⑳242
牧原忠大夫……側者頭添役次席238B7
慶応3(1867)先手者頭添役③71A1
先手者頭添役③114C10,⑳65
(文久3父権左衛門家督)
卒分隊長③142C23,24
牧原伝次郎……無役士族135
牧原伴右衛門…錠前番③154C3
牧原半右衛門…④81B1(正直)
牧原平八………慶応元(1865)側詰次席③74A22
(忠太夫)
牧原弥十郎……大隊長請引③148B26,122
④81B5(直尚)
当家の系図には「先祖は三河国・松平郷(ごおり)・牧ノ原荘の出」と
書かれています。「牧の原」と言えば、静岡県の現「牧の原市」。
東名に「牧の原SC」があり、お茶の栽培で有名です。それで長い間、
先祖の地は、静岡の「牧の原」と思いこんでいました。
名古屋に来て気づきました。あちらは「遠州、牧の原」でした。
それでも、「牧の原城」に 虚無僧で行ってきました。
東海道線「金谷駅」から急な坂を上り、広大な「牧の原台地」の
一隅に「牧の原城」がありました。中世の山城としては、その
遺構がかなりよく保存されています。
この城は、元は、武田方の出城で、武田の守護神「諏訪大明神」を
祀るので「諏訪原城」と呼ばれていたのです。
天正3年(1575)、徳川家康が攻めて奪い取り、その後を「牧野康成」に
守らせたため、「牧野の城」「牧の原城」と改名されたようです。
この「牧野」氏は、三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を
発祥とする一族です。
「牧野」と「牧原」、関係ありそうな無さそうな、微妙です。
さて、それでは、当家の祖「平石」氏は、いつの頃から
「桜井松平」家の配下にいたのか。
『安城市史』5資料編、
天文18年(1549)一向宗(本願寺派)の「本證寺」門徒の連判状に、
「牧」姓の者が4人も おります。
この年、家康の父「松平広忠」は24歳で歿。家康は当時
まだ7歳。「竹千代」として駿府の今川義元の元に人質として
おり、安城は今川と織田の勢力争いの場となっていました。
1560年、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、
家康は晴れて岡崎に帰還します。
しかし まもなく、三河一向一揆に苦しめられます。
三河一向一揆は、安城の「本證寺」他、本願寺末寺が
家康に敵対したもので、「桜井松平」は一揆方に加わり、
家康に対抗します。この時、家康の重臣の「本多正信」や
「蜂谷貞次(徳川16神将の一人)」も一揆側に付きます。
この「蜂谷」氏は 私の妻(旧姓「蜂谷」)の先祖です。
家康と一揆側が和睦した後、「桜井松平」は 松平の一族と
いうことで、所領は安堵されています。
徳川・松平の家臣には、「牧野」「牧」姓が結構おり、皆
「牧の原」の出と言い伝えています。同族なのでしょうか。
でも、その「牧の原」の場所が特定できません。
全国の「牧原・平石」姓の方、先祖のことをご存知でしたら、
ご連絡ください。
浜松城主となった「桜井松平家」の当主「忠頼」は、
慶長14年(1609)、江戸で旗本同士の喧嘩の仲裁に
はいさて殺され、お家断絶となります。27歳でした。
それで「牧原」の祖は 一時的 浪人になります。
その後、浜松城主となったのは、「水野重仲」でした。
水野重仲は、家康の母「於大」の実家の系統であり、
家康に重用されたのですが、それが裏目にでます。
身内ですから、家康の十男「頼宣」の「傳役(でんやく=子守)」
となります。養育、監督役ですから重要な職です。
1603年、「頼宣」は2歳で「常陸水戸20万石」を与えられます。
しかし、家康は「頼宣」を駿府の自分の膝元に置き、実際は、
「水野重仲」を派遣して、佐竹氏の後の常陸の統治を任せます。
この時の常陸時代の家臣に「牧原・平石」はいません。
その後 1619年、「頼宣」は、常陸水戸から紀州和歌山に
転封となります。この時、「水野重仲」は「付け家老」として
新宮城主となります。この時、浪人していたわが先祖も
採用され、新宮に移住するのでした。
水野の家臣にしてみれば、主君が 新宮城主とはいえ、
紀州徳川の「家老」になってしまったのですから、
その家臣は「陪臣」「又家来」といって、身分的には
一段低くなります。
わが祖先は「陪臣の身では将来が無い」と悲観して、
当時、新設された「会津保科家」に、わが子(15歳)を
小姓として上がらせたのでした。先見の明です。
“終活”のひとつとして、緊急時の連絡先、訃報通知のための名簿の整理、
年金、保険、銀行口座、カード類などの記帳はひとまず終わり。次は
「牧原家の系図」作りです。先祖探しで集めた資料は段ボール10箱にもなり、
このままでは死ぬに死ねません。ブログに書いた゜記事も100件以上。
とりあえず、今まで書いた記事を順番に並べますので、関心の無い方は
カテゴリーで「虚無僧のこと」とかを選択して、他をご覧ください。
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私の「虚無僧の旅」は先祖探しの旅でした。先祖の足跡は、樺太から
北海道、青森、福島、東京、神奈川、千葉、静岡、愛知、岐阜、和歌山、
京都、大分、そして沖縄とほぼ全国に散らばっており、これまで行って
いないのは樺太だけとなりました。そこで発見した“驚くような”事実、
不思議な因縁の数々をぜひ、記録して残しておきたいと願うものです。
まずは、牧原家の概要を。
遠祖は新羅三郎義光に始まる清和源氏の流れ、武田の一族ですが、武田家の
衰退とともに徳川方に就き、浜松城主となった桜井松平の忠頼に仕官。
忠頼が若死にして改易となると、その後浜松城主となった水野重仲に、
水野が紀州徳川頼宣の付家老として新宮に移封されると新宮に。そして
徳川二代将軍秀忠の落胤「保科正之」が会津藩主となると、大量の家臣団の
募集があり、それに応募して会津藩に移籍。初代は三代藩主「正容」の
お小姓から側用人500石までなったのですが 、幕末の会津戦争の時は、
本家の一郎が300石、その弟が郡奉行150石でともに自刃。
明治以降一族は離散し、その子孫を探し求めてきました。
このブログやフェイスブックを通じて、何人かの子孫と連絡がとれました。
では、今まで各地を周り、ブログに単発的に書いてきたものを、遠い
先祖のことから順に並べてみます。
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山梨県の北杜市で「竹竹の会」があり、その帰りのことです。
「北杜市」は、小淵沢から長坂、武川までの町が合併してできた市です。
国道20号線を下っていくと、韮崎の手前に 「武川町牧原」という
交差点がありました。「まきのはら」と読むようです。
当家の系図に「牧の原の出で牧原と名乗る」とあるのと合致します。
このあたりは、武田の「武川衆」の支配地でした。その「武川衆」に
「牧原」姓を名乗るものが居たのです。
◆武川十二騎衆
教来石信保、米倉重継、島原、白須、山高親之、牧原、青木信立、
折井、柳沢信勝、山寺信明、宮脇種友、横手信国 の 諸家
(余談)
「柳沢」は、元禄赤穂事件の時、五代将軍綱吉の「側用人」として
権勢をふるった「柳沢吉保」の祖です。東京巣鴨の六義園は柳沢吉保の
邸宅でした。私が18歳の時、明暗尺八を富森虚山師に師事し、ここ
六義園内の建物で「吹き合わせ会」がありました。思い出の場所です。
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武田家は、八幡太郎義家の弟「新羅(しんら)三郎義光」を祖とする
清和源氏です。その「武田家系図」に「武田太郎信義から五世の孫
「時信」の子「八郎貞家」が「牧原の祖」となっています。
「武川衆」は、天正10年(1582)、 武田勝頼が天目山の露と消え、
武田家が滅びた後、こぞって徳川家康に仕えています。ところが
この時の「武川衆」の中に「牧原」姓はいません。ということは、
牧原が三河に移住したのは、武田勝頼滅亡より以前のこととなります。。
当家の祖が、いつ武田から徳川に鞍替えしたのか?。
考えられるのは、元亀4年(1573年)武田信玄が三河に攻め入り、
野田城を落とした後、病に罹り(野田城で被弾したとも)、2ヶ月ほど
鳳来寺に逗留しています。この時「武川衆」が、鳳来寺山の周辺を
探索したのではないか。というのは、「武川衆」は「金の採掘技術」を
もっていました。
武田信玄は、この後亡くなるのですが、牧原の祖が、鳳来寺のすぐ西の
松平郷に住みついたのは、この時期ではないか、と思われます。
「武田一族に牧原姓」の者がいたことは確かですが、
当家の系図では、江戸時代以前は「平石」姓で「三河松平の荘・牧の原」の
出なので、新宮に移った時「牧原」と改姓したとあります。
となると「武田一族の牧原」とは関係が無いことになります。ザンネン。
では、「三河・松平の荘・牧ノ原」とは、どこなのか、いろいろ調べましたが
江戸時代以前の地図に、現在の豊田市周辺に「牧ノ原」という地名は
見つかりません。
父の葬式の日でした。それまでにわかった先祖の系譜をコピーして、
親戚一同に配り、愛知県の地図を見せていた時のことです。従兄の
「牧原源治郎」が「ここに牧原ってある!」と見付けてくれました。
感動と驚きでした。
豊田市の東、乙川の上流に 「くらがり渓谷」 という行楽地があり、
そこへ行く手前に「牧原」とあるではありませんか。
名古屋に戻って、さっそく行ってみました。
乙川に沿って 河岸段丘にわずかな田んぼがある 山間部でした。
10軒ほどの家がありますが、みな「山口」姓で、訊ねましたが、
「牧原」の地名の由来は判らないとのこと。
私は、ここが「系図」にある「三河・牧原」ではないかと 勝手に
思うことにしました。
武田から流れてきた先祖が住みつくには、都合のよい三間部です。
その時の姓は 「平石」でした。みずから開墾したので、地名は「牧原」
ですが、松平忠頼に召しだされて仕官した時は、武田の一族であることを
隠して「平石」を名乗ったのではないか。
そしてその後、紀州に移った時には、徳川は武田の遺臣を厚遇して
いましたから「牧原姓」に復姓した。と考えられないでしょうか。
武田信玄が没したのは 元亀4年(1573年)です。武田勝頼が織田信長と
徳川の連合軍に敗れた「長篠の合戦」は天正3年(1575)。
武田が滅びるのはその7年後の 天正10年(1582)。そして
その2カ月後には、織田信長が本能寺の変で明智光秀に弑されます。
すると信濃・甲斐の支配は大混乱になれます。
そしてそれから30年近く過ぎて、当家の祖は、浜松の城主「松平忠頼」に
仕えます。代も変わっているでしょう。この30年の間が不明で、
どうつながるのか、つながらないのか。手がかりがありません。