現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

法燈国師は普化尺八の伝来者に非ず

2017-05-11 14:15:18 | 虚無僧って?

昨年5月以来、『邦楽ジャーナル』に 虚無僧の歴史について連載しております。

原稿を書きながら、元史料をチェックしていると、とんでもないことに気づきました。

普化尺八の由来については、たいていの書物が 次のように書いています。

『虚鐸伝記国字解』(1795)によると「由良の興国寺の開山法燈国師学心が 宋に渡り

張参から普化の禅と虚鐸(普化尺八)を学び、帰国した。その際4人の居士も連れてきた」と。

ところが、『虚鐸伝記国字解』の原本を読むと、「4人の居士は、日本に帰国してから

虚鐸を教えた4人の弟子」となっています。つまり中国からの渡来人ではありません。

岡田冨士雄氏の『虚無僧の謎---吹禅の心』(秋田文化出版)では、

「『虚鐸伝記国字解』に従って記すと(4人の居士)の法普(法伏)、僧恕、理正は

鎮州人、国佐は済州人」と、まことしやかに述べています。

ところがところが、『虚鐸伝記国字解』にはそのような記述はありません。

さらに岡田冨士雄氏は別項で、なぜか中国からの渡来人4人は覚心の第一の弟子

「寄竹」の弟子となっています。

さて、別の書物では、

「南部藩からの問い合わせに一月寺隠居が答えたという『問答集』(1753)には

普化宗の由来として[法燈国師覚心が帰朝の際同船してきた四人の居士が普化尺八を

広めた・・・」とあるのですが、『問答集』にそのような記載はありません。

 

でも、宮地一閑の『尺八筆記』(1813)の「一月寺の縁起」には

「法燈国師tが帰朝の際、普化の法流の四人の居士、宝伏、理正、宗恕、国作が

同船してきた」と。

 

また「京都明暗寺の縁起=『虚霊山(明暗寺)縁起』」(1735)でも、

「法燈国師覚心が帰朝の際、宋人の国作、宗恕、理正、法普という

四人の居士が同船してきた。四人の居士は普化を祖とする瘋癲漢で

尋常尺八を弄し、遊戯三昧。その住んだ所を普化谷という」と。

 

ということは、この両寺の縁起によれば、「法燈国師覚心が自ら普化尺八を学び

日本に帰って、広めたのではなく、普化尺八の祖は中国から覚心に着いて

やってきた四居士であって、法燈国師は普化とは全く関係がない」ことに

なります。これがホントでしょう。

「法燈国師が自ら普化尺八を学んで、日本に広めた」とするのは

『虚鐸伝記』だけなのです。ということは『虚鐸伝記』がある意図をもって

縁起をねじまげ、粉飾したことになります。

その理由が明らかになりました。

この当時、1760年代、京都の明暗寺が、関東の一月寺、鈴法寺に対抗して

「京都明暗寺こそが虚無僧の本山である」との訴えを幕府に出していました。

明暗寺としては、中国から渡来した四居士が各地にちらばって虚無僧寺を建てた

のではなく、興国寺の開山「法燈国師覚心」が普化尺八の伝承者であって、

その弟子「寄竹(虚竹)」によって京都明暗寺が、寄竹の弟子「宝伏・金先」に

よって一月寺ができた」と、自分の優位性を主張するために、『虚鐸伝記国字解』を

捏造したのでした。


ついに解けた『虚鐸伝記国字解』の謎

2017-05-08 19:02:38 | 虚無僧日記

『邦楽ジャーナル』7月号に 掲載予定の原稿です

 

『虚鐸伝記国字解』は「虚鐸の伝記」ですが、その前段に、

「虚無僧の始祖は楠正勝である」ということが書かれているのです。

(中略)

頓翁が書いた『虚鐸伝記』が、阿野中納言家に伝えられ、

150年後、同族の山本守秀が注釈を加えて世に出したというのです。

山本守秀は序文で「『虚鐸伝記』は虚鐸の伝承が主で、楠正勝のことが

詳しく書かれていないのは不満である」として、自ら集めた伝聞を元に

「楠正勝」の記事を『虚鐸伝記国字解』の「巻の上」に納めています。

山本守秀は、江戸時代の半ば、虚無僧が堕落して乱暴狼藉を働くなど、

嫌われ者になっていることを嘆き、「虚無僧の元祖は、忠臣楠正成の孫正勝なり。

楠正成の誠忠を伝え、志を篤くして世を忍ぶ由緒正しき宗門なれば、

この宗に入る者は、ただ逍遥として風流を以て是とし、威勝(ルビ:いかつ)い

振る舞いをなさず、身を辱(ルビ:はずかし)めず、この宗門の繁昌すること、

指を折り日を数えて待つべし」というのです。つまり、「虚無僧は楠正勝の

志にならい、威儀を正せ」と説いているのです。

それが『虚鐸伝記国字解』を世に出した山本守秀の真意でした。

 

阿野・葛山・北条の不思議な関係

楠正勝=虚無僧の始祖説は信じがたいものですが、ではなぜそのような伝承が

山本(阿野(ルビ:あの))氏によって創られたのかが、次なる謎です。

阿野氏の祖は、なんと牛若丸(源義経)の兄今若丸です。今若丸は異母兄の

頼朝が天下をとると、駿河国駿東郡阿野荘(現静岡県沼津市西部)を領し、

阿野氏の祖となります。その子孫に後醍醐天皇の後宮「阿野廉子」が

出ます。南朝の後村上天皇の生母です。後村上天皇は西方寺を手厚く遇し、

興国寺と改めさせました。西方寺は、葛山景倫が源実朝と北条政子の菩提を

弔うために建てた寺でした。その北条氏を滅ぼした後醍醐天皇とその子

後村上天皇が、西方寺を興国寺と改めさせたのは、政子の怨霊を封じるため

でしょうか。阿野廉子も興国寺のことは知っていたはずです。

その阿野氏は南北朝合一後も公家の座に留まり、江戸時代、明治、昭和と

存続します。

そして阿野荘の隣人は西方寺を建てた葛山氏でした。北条早雲が最初に

沼津に築いた城は興国寺城です。早雲の子北条幻庵は尺八の名手で、

北条家の家臣の多くが尺八をたしなみ、北条氏滅亡後、何人かの家臣が

虚無僧に身をやつして関東各地に草庵を建て住んだのです。

阿野氏と葛山氏と北条氏、そして興国寺は見えない糸でつながっているのです。

そうしたDNAが、虚無僧南朝説を創りあげたのでしょう。

 

吹いていく

今やネットで何でも調べられる。私は阿野氏の子孫をずっと探し続け、

東大の史料編纂所などにも通ったものでした。ところが最近ネットで

検索してびっくり。山本氏は阿野氏の支流であること。阿野氏の子孫は、

有名な作曲家で、私の東京の家の近くに住んでおられたこと。そして

その二人の姉妹がチェロリストとヴァイオリニストとして世界的に

活躍されていることを知り、早速フェイスブックでメールを交わしました。

こうして『虚鐸伝記』の謎がイッキに私の身近に迫ってきたのです。


時間が止まった!

2017-05-07 11:21:57 | 虚無僧日記

4月3日を最後に、彼女からのメールが途絶えた。

以来、私の中で時間が止まってしまった。

1日からメールで体の不調を訴えていた。「頭が痛い」。

「今日は、痛みが肩から腰、足にまできた。このままでは

歩けなくなりそう」「医者に行きましたが “心労” とのこと。

しばらく休みます」。

そして3日「明日はキャンセルしてください」とのメールが

最後となった。人づてに「くも膜下出血で倒れ入院」との知らせ。

以来、彼女からのメールを待ち続ける毎日。

22年間、二人で積み上げてきたものが、イッキに崩壊してしまった。

琴のパートナーを失って、仕事は皆キャンセル。私の将来も消えた。

私も精神的ショックで、寝たり起きたり。数日かけて名簿の整理を

している。1000枚ほどあった名刺やハガキ類は、ほとんど捨てた。

大半が、もう亡くなっていたり、転居したり、部署が変わっていたり、

二度と会うことのなかった方。

無駄な時間とお金を費やしたものだ。あぁ人生は空しい。