現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

福沢諭吉は芸術、宗教にオンチだった?

2019-04-06 20:58:09 | 虚無僧日記

「福澤諭吉」は、実利主義といいますか、「美術や文学」
そして「宗教」については、無関心だったようです。
書画骨董の趣味も無く、庭いじりをすることもなく、
塾出身者が茶の湯や謡曲などにふけると叱ったと
いいます。

もっとも侍は寄席や芝居小屋への出入りはしないのが
建前でしたから、江戸時代は観たこともなかったのでしょう。

福沢諭吉が、寄席を観にいくようになったのは、明治5、
6年頃からでした。これも演説の参考にするという意図が
あったようです。

福沢諭吉が初めて「新富座」に芝居を観に行ったのは
明治20年。「福沢先生芝居を観る」と「時事新報」に
記事が載ったほどでした。

そんな福沢諭吉でしたが、娘達には琴、三味線、長唄、
舞踊など、自宅に師匠を招いて稽古事を習わせ、自宅で
おさらい会などを催して、喜色満面だったといいます。


福沢諭吉の次男が「捨次郎」。父「諭吉」は「妻以外に
結婚前も後も一人も女子との接触はなし」というほどの
潔癖性でしたが、子供たちは自由奔放に育てられ、
芸者遊びも派手でした。

「捨次郎」が京都の芸者に生ませた子が、私の尺八の師
「堀井小二朗」です。「捨次郎」の子ですから「小次郎」が
本名ですが、それを嫌って、芸名は「小二朗」と名乗って
いました。堀井小二朗師は、京都で生まれ育ち、幼少の頃から
母の長唄、地唄を聴いて育ち、8歳で「八重衣」を
諳んじていたといいます。そして、父「捨次郎」の庇護のもと、
慶応に入学し、池上に家屋敷も与えられていました。







「福沢桃介邸」はその後

2019-04-04 20:45:18 | 虚無僧日記

山手線恵比寿駅の東に小高い山がありました。
「福沢山」と呼ばれていたそうですが、そうとは知らず
私は その下を通って三田まで通っていました。

そこが、福沢諭吉の長女「お房」さんと「福沢桃介」の
邸宅だったと知ったのは、慶応を卒業して千代田生命に
入社した時です。そこは「千代田生命」の研修センターに
なっていて、入社して一年は教習生として、ここで
暮らしました。

そして、入社4年目に不動産部に配属された時、
土地購入時の一件資料を見つけたのです。
業務上知りえた秘密は公開できませんか?千代田生命も
無くなってしまったから、まいいでしょう。

ここは、お房さんと桃介の邸宅でしたが、400坪ある
敷地には、劇場や書生たちの住まいもありました。

桃介邸は、二棟あり、その間は渡り廊下でつながれて
いました。桃介はほとんど名古屋~岐阜、長野で仕事を
していましたから、めったに東京に帰ることは無かった
のですが、帰京してもお房さんは顔を会わせなかった
ようです。

さて、桃介は巨万の富を築いたのですが、昭和13年に
亡くなり、戦争戦後を経て、株も紙切れとなり、貨幣
切り替えで、何万円もの遺産も100分の1になって
しまいました。

桃介とお房さんの子の「駒吉」は、精神を病んでいて、
看護婦の「八重」さんが付き添っていましたが、
駒吉は、八重さんを妊娠させてしまいます。というわけで、
事実婚です。

そして戦後、駒吉夫婦?は、生活の困窮から、敷地を
千代田生命に売却します。 敷地400坪をたしか1万5千円
だったと記憶しています。(安い!)千代田生命の
創業者は慶応の塾頭を務めた門野幾之進でしたから、
福沢桃介の遺児を救おうという気持ちもあったようです。

その1万5千円も、戦後の超インフレで、あっというまに
価値がなくなり、他の遺族から「売買契約は無効」との
訴訟を起こされますが、千代田の勝訴に終わります。

さて、駒吉さんはその後 どうされましたかな。


福沢桃介と お房さんと マダム貞奴

2019-04-04 20:44:17 | 虚無僧日記

「福沢桃介」は、諭吉の次女「房」さんの夫です。

旧姓は「岩崎」。現在の埼玉県吉見町の貧しい農家の次男でしたが、
「神童」と言われるほど、頭が良く、旧知の人の世話で慶應義塾に
進学した。慶應の運動会で桃介の眉目秀麗ぶりが福澤諭吉の妻・錦の
目にとまり、次女の「房」引き合わされる。

1887年 福沢諭吉の援助でアメリカに留学、2年後に帰国して、
房と結婚し福沢姓に変わった。
福沢諭吉には、男子が4人もおり、養子をもらう必要も無かった。
しかし、諭吉は人一倍の子煩悩で、娘可愛さのあまり、「結婚したら
夫の姓を名乗らなければいけないというものではなかろう」と、
岩崎桃介を「福沢」姓に改姓させた。だから養子ではない。

桃助は、肺結核にかかったが、その療養の間、株を研究し、株で
大もうけをした。当時の金額で10万円(現在の20億円前後)という。

そして、株で得た金を元手に実業界に進出する。木曽川水系に
ダムを築き、水力発電所を設置して、電気を関西方面に売った。
名古屋でも電気の需要を起こすため、日清紡績や大同特殊鋼など
いくつもの会社を起こし、鉄道を敷いた。現在の中部電力や
大同グループ、名鉄グループの創業者であり、名古屋発展の
功労者であるが、なぜか、あまり知られていない。

な~ぜか?。それはどうも「諭吉」の娘「房」さんとの不和にあると
私は思っている。「桃介」には学生時代から想いを寄せる人が
いた。「川上音次郎」の妻「貞奴」だった。「貞奴」も「音次郎」
という夫がいながら、「桃介」のパートナーとなって事業を助けた。
世間から見れば「公然たる不倫」である。「桃介」は福沢諭吉からも
快く思われず、当然、経済界で活躍する慶応のOB達からも
疎外されることとなった。

当然「お房」さんは面白くない。東京渋谷区広尾の400坪もある
敷地に、「房」さんは母屋と別棟の二棟新築し、二人は敷地内で
別居することとなる。

「桃介」は「諭吉」とは真逆で「歌舞音曲」が大好きだった。
広尾の「桃介邸」には、劇場館まであり、役者を呼んでは
演劇鑑賞会なども行われた。

貞奴が日本初の「女優養成学校」を作るのにも惜しみなく
援助している。名古屋には「桃介と貞奴」が住んだ邸宅が
名古屋市に寄贈され、今「双葉館」として公開されている。
当初「貞奴邸」と呼ばれていたが「不倫相手の名を冠するのは
けしからん」との声もあって、以前あった場所の地名をとって
「双葉館」。



福沢桃介と貞奴

2019-04-04 20:39:38 | 虚無僧日記

福沢桃助は福沢諭吉の娘お房の夫。しかしお房とは                                        ソリが合わず、貞奴がビジネスパートナーとなった。

南木曽の桃介橋の側にある、福沢桃介と貞奴の
住みかとなった邸宅が、今記念館となっている。

桃助の正妻 お房が住む渋谷区広尾の本宅は
戦後千代田生命が買い取り、研修センター
として使われていた。そこが私の職場だったから、
とりわけ、桃介には思い入れが有る。

名古屋市東区の邸宅は、今、名古屋市が
所有し、『双葉邸』として公開している。

岐阜の鵜沼には、貞奴の菩提寺「貞照寺」と
広大な邸宅があり、貞照寺は犬山の成田山の
管轄下にあり、邸宅は都筑紡績が所有していた
が、同社が倒産し2億円で売りに出たとか。

桃介は貞奴との仲が公然となるに伴い、
福沢家と慶応閥の財界を敵に回した。それ
にもめげず、己れの信ずる道を貫いた。
そんな、桃介と貞奴の生き方に、私は共鳴
するのである。




福沢捨次郎の妻

2019-04-04 08:40:21 | 虚無僧日記


千葉の「佐倉」と言えば、義民「佐倉惣五郎」。福澤諭吉も
「古来唯一の忠臣義士」としてその名を挙げているとか。

そして もう一人、佐倉出身の有名人は、順天堂の生みの親
「佐藤泰然」。ネットで調べてびっくり。「佐藤泰然」の
長女「つる」は「林洞海」に嫁し、弟(佐藤泰然の五男)
「董(ただす)」を養子にしている。そして、「林 董」の
娘「菊」は 福沢諭吉の次男「捨次郎」の妻となっている。

つまり「佐倉」は、福沢捨次郎と わずかながら縁がある。
私の尺八の師「堀井小次郎」は、その「福沢捨次郎」の
愛妾の子である。福沢家の系図には載っていないが、
堀井小次郎は、父の庇護のもと、東京大田区池上に屋敷を
もらい、慶応に入学し、昭和6年法学部を卒業している。
堀井家には「捨次郎」の写真が保管されていた。


また、「林洞海」と「つる」の長女「多津」は「榎本武揚」
に嫁している。「つる」の弟で養子の「林董」は、初代駐英
大使で、さらに外務大臣、逓信大臣などを勤めた。

明治の人脈は、閨閥を辿っていくと、意外な事実が判って
面白い。


福沢楡吉の孫「堀井小二朗」

2019-04-04 08:39:20 | 私の尺八遍歴

昭和40年代に「日本音楽集団」や「尺八三本会」が
邦楽界の最先端を行き、それを学生達が熱烈支持
したのは、安保反対の学生運動と無関係では
ありませんでした。私は“右寄り”でしたが、
因習的な邦楽界、家元制度への反発もありました。

「堀井小二朗」師は「福沢諭吉」の次男「捨次郎」の
妾腹の子でしたが、「福沢楡吉」の孫たちの中で
一番「福沢諭吉」に 顔が似ていました。「福沢楡吉」が
「封建制度は親の仇でござる」といい、西洋の文物を
日本に紹介し、因習を否定し、啓蒙を図ったように、
「堀井小二朗」師は、邦楽界の改革を行った人でした。

まず、「音程もリズムもデタラメな尺八界」をなんとか
しなければと、尺八の楽器としての改良を目ざしました。
チューナーなど無い時代ですから、製管師は耳だけが
頼りで、音律など合わない尺八がほとんどでした。

箏の会などに尺八家が伴奏で呼ばれていきますが、
所詮尺八家は“素人の旦那衆”ですから、“先生、先生”と
チヤホヤされますが、「御祝」を持参して出させて
いただく立場でした。堀井師は「私は“音楽家”
ですから、演奏で食べていますので」と、ギャラを
要求したのです。すると筝曲界では「なんてお金に
汚い人だ」という噂が広まり、三曲界からも干されて
しまったのです。

堀井師が「演奏家ですから演奏料をください」と
云ってくれたおかげで、今日の尺八家が「演奏料」を
いただけるようになったのです。

私も昔、ある箏の会から「3万円でいいですか」と
いわれて、てっきりギャラだと思ってOKしたら、
当日「出演料(会費)」として3万円を請求され、
真っ青になったことがありました。そんな時代
だったのです。

堀井師は「家元制度」と「免状制度」も否定して
いました。年数だけで、調弦もロクにできない、
歌も歌えない人が、箏の師範免状をもらっている
のはおかしい。洋楽の世界にはそんなものは無いと
いうのです。

ですから、私も、学生の頃は「家元制度 粉砕」を
叫んでいました。今、この歳になると「家元制度は
邦楽家の老後の生活ために必要なもの」との理解を
示しています。


福沢諭吉『楠公権助論』

2019-04-02 22:15:00 | 虚無僧日記

父の『従軍記』には、次のように書かれている。
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陸士卒の大島二郎中尉に呼ばれた。
「仕官学校では、福沢諭吉は国賊だと教えている。おまえは
その福沢の慶応大学卒か・・・」と言う。(自分は)福沢先生
研究会に入っていて、少しは勉強していたので、先生の著書
『楠公権助論』のことと、すぐに気づいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とある。そこで『楠公権助論』について、ネットで調べてみた。
なんと『学問のすすめ』の中に書かれている論だった。

「天は人の上に人をつくらず・・・・・」で始まる『学問のすすめ』は、
70万部も売れたベストセラーだったが、その第6編「国法の
貴きを論ず」と第7編「国民の職分を論ず」では、赤穂浪士と
楠正成を「愚か者」と論じているため、右翼の猛反発を喰らい、
命を狙われるほどだったという。

福沢諭吉は、「赤穂浪士は、国法を犯した罪人であり、主君の
ために自分の命を投げ出す忠君義士の死は、主人の使いに出て
一両の金を落としてしまい、首をくくった権助の死と同じ。
楠正成の死も、世の中にとっては何の益もない、ただ私的
満足のための死だ」と喝破した。

明治の初めのことである。講談や歌舞伎で「赤穂浪士」も
「楠正成」も絶大なるヒーローだった。それを、なんの
価値もない“犬死”と決め付けられては、当時の人々に
とっては衝撃的だったのだ。

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父はその後、「経理部幹部候補生」となるが、その時も、
他班の班長から呼び出されて、こっぴどく殴られる。
理由は、自分の班の者が「経理部幹部候補生」になれな
かったことの腹いせだった。

全く、軍隊は“不条理”。バカバカしい。


福沢諭吉の「やせ我慢の説」

2019-04-01 21:46:02 | 社会問題

福沢諭吉の著作に「やせ我慢の説」というのがあります。

まず冒頭で「立国は私(情)なり、公に非ず」という切り口上に
驚かされます。

言われてみれば なるほど、「清盛も頼朝も信長も、秀吉、
家康も、自分の私情、私利私欲で、天下をとり、政治も
経済も欲しいままにしたのです。「八重の桜」を見ていても、
結局「明治維新は 岩倉具視や西郷の私情で作られたもの」
だったではないですか。

「さすがは福沢諭吉」と感心していると「現実には、小さな国に
別れて競争しあい、そこに忠君愛国の『私情』が芽生え、それで
社会が成り立ってきた。そこには『やせ我慢』という日本人の
崇高な美徳があった。小藩が大藩と伍して国を守り得たのも、
朝廷が政治を幕府に委ね、均衡と平和を保ってきたのもみな
「やせ我慢」の精神があったからだと。

そして、勝海舟氏が平和裡に江戸幕府を解散したことの功績は
稀有で偉大なことだったが、違う観点から見るならば、敵と
味方と対立しているのに 戦うこともせず、早々と降参したのは、
子孫にとって「やせ我慢」の偉大な精神や気概が失われる
心配がある。

将来、外国が攻めてきたら、勝てそうにないからと、さっさと
降服して、植民地にされてもいいのか。

勝海舟のために言うならば、彼は日本の将来のために、
「国家を成り立たせる重要なものとして瘠我慢の精神という
ことがある。外国の侵略を受けたら、戦争も恐れるべきではない。
決して、明治維新の時の私の立ち居振る舞いを真似てはいけない」
というくらいの反省の心をもって、新政府の厚遇を辞退し、
官職や爵位を捨てて、単身世の中を去って身を隠すようで
あったならば、世の中の人も、彼に『誠心』があったことを
知って、その清らかな節操に心服し、かつての幕府の解散の
処置も、本当に勝海舟氏の功績となるだろう。

というのが福沢諭吉の「やせ我慢の説」の結論でした。

これに対して「勝海舟」は「批評は人の自由、出処進退は
私の勝手でしょ」と。

目黒区の洗足池の端に勝海舟夫妻の墓があります。子供の頃
何度か遊びにいったものです。勝には妾が5人もおり、正妻と
複数の妾を同居させて平然としていました。正妻の「民子」は
「夫と同じ墓には入りたくない」と遺言し、当初は青山墓地に
葬られたのでずか、後に海舟の傍らに移されたとか。

対する「福沢諭吉」は妻の「錦」さんと夫婦仲睦まじく、
他に浮いた話しは一切なく、夫婦ともに一つのお墓に眠って
います。


福沢諭吉の「勝海舟」批判

2019-04-01 21:45:21 | テレビ・映画・芸能人

「八重の桜」で「勝海舟」が「西郷吉之助」と談判して
「江戸城無血開城」が 叶ったかのように描いていた。

しかし、江戸の無血開城は、勝以前に「山岡鉄舟」が
駿府(静岡)まで行って西郷と談判しており、さらに
皇女「和の宮」や島津家から輿入れした「天璋院
篤姫」も嘆願書を出していた。また「八重の桜」でも
きちんと描かれていたが「山本覚馬」の進言も
西郷に影響を与えていたのだった。

しかし、それを「勝海舟」は、「自分一人の功績である」と、
明治政府に売り込んで、新政府に出仕したことにより、
勝に対する評価は下げられた。

福沢諭吉は、中津藩士から「幕臣」になっており、明治に
なって新政府から再三の要請があったにかかわらず、
「武士は二君に仕えず」と、官吏になることを拒否した。

福沢諭吉は「やせ我慢の説」で、「勝海舟」は、「江戸を
無血開城」させた功績は認めるが、明治になって新政府に
仕えたことで、「やせ我慢」の日本的精神が損なわれる
こととなり、日本の将来のために よろしくない」と
説いたのである。


モリソン号事件をつなぎにして

2019-04-01 21:44:34 | 虚無僧日記

「日本史」に興味を持ち 深く探っていると、ひょんな
ところでつながるから面白い。今回も新発見。

「福沢諭吉⇒ 音吉=モリソン号=高野長英←虚無僧」と
つながった。

「モリソン号事件」とは?

1837年(天保8年)、モリソン号が突如浦賀沖に来航した。
ペリーより13年も前に外国船が浦賀に来ていたのだ。
しかしその時は、浦賀奉行が「異国船打払令」に基づき
砲撃を行って 撃退してしまった。

ペリーの艦隊とは違って、モリソン号は「商船」で非武装
だった。(海賊に襲われる危険があるから、大砲ぐらいは
積んでいたと思うがのぉ?)そして、日本人漂流民の
「岩吉、久吉、音吉、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の7名を
日本に送り届けてきたのだった。それを口実に、日本との
貿易、ならびに宣教師の日本布教の端緒を開こうというのが
目的だった。

何年もかかって、ようやく日本に帰ってきた「音吉」たち
にとって、砲撃を受け、上陸さえも拒否されるとは、
なんとむごいことだったろう。

幕府はこの事件も 民には知らせないはずだったが、「音吉」
たち漂流民を送り届けてきたという話は、オランダを通じて
1年後に判り、その噂は、じょじょに広がっていった。

蘭学者 渡辺崋山は『慎機論』を著し、高野長英は
『戊戌夢物語』を著して、幕府の対外政策を批判した。

隠していたことがバレ、「ご政道」を批判された幕府は、
面子にこだわり、崋山や長英らを逮捕、投獄してしまう。
(蛮社の獄)。しかしさすが処刑まではしなかったが、
長英は、放火騒ぎを起こして、牢破りをし、顔を薬品で
焼いて人相まで変え、潜伏したのだった。

虚無僧になれば顔を隠せたのに。士分ではなく、町医者
だったために拒否されたとか。ホントは、遠島破りや
無宿人もいたのだから、高野長英の話は「虚無僧」を
権威づけるための後世の作り話かと私は考えている。