日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「気合と根性」で、難局を乗り切ろうとするのはなぜか?

2023-08-21 20:37:24 | ライフスタイル

先週末、Yahoo!のトピックスだったと思うのだが、「まだ、こんなことが話題になるのか…」と思うような記事が取り上げられていた。
現代ビジネス:未だに「マスク」と「ワクチン」を崇め奉る日本人は、一体いつまで”コロナ禍プレイ”をやり続けるのか 

今年のGWが終わってから、新型コロナの感染症としての扱いは、2類相当から5類の「季節性インフルエンザ」と同等の扱いになった。
これを機に、マスクの着用は基本「個人の判断にゆだねる」ということになった。
しかし、熱中症アラートが連日のように発令される中、マスクを着用して出歩く人達がまだいる。
マスク着用そのものは個人の判断なので、そのことに云々する気はない。
ただ、「熱中症が怖くないのかな?」と、心配をするだけだ。

この記事が、Yahoo!のトピックスで取り上げられると、ヤフコメとして様々な意見が飛び交うようになった。
「マスク着用は、個人の自由なのだから、着けているからと言ってこのような取り上げられ方をしてほしくない」という意見もあれば、「マスク着用なんて、エアゾル感染のコロナでは意味がない。なのに、何故まだ続けているの?」という、意見。
中には、高齢者福祉施設で働く人が「マスクを着用することが難しい高齢者施設で、クラスタ―が発生すると大変なことになる実態を理解して欲しい」という趣旨のコメントまで、実に様々だ。
コメントを読む限り、それぞれの立場や考えがあって意見を述べ、理解を求めようとすることはとても重要なことだと、改めて実感をした。

ただその中で、気になったことがある。
何故「マスク」にばかり注目をし続けるのか?という点だ。
上述したように、「マスク着用」そのものは個人の判断だし、以前から言われていることだが「マスクによる(コロナ)予防効果は、限定的であり、しかも『正しい着用をした場合』」という注釈が付く内容だった。
感染症2類相当から5類に移行したとき、「マスクをし続ける理由」として、「周囲の目が気になる」とか「マスクを外すことが怖い」いった「感染症予防」目的ではない理由が上位に挙がっていた。
高齢者福祉施設や病院などに勤務する人達に限定すれば、「感染予防」が目的である、ということでもある。
そして今でも「クラスタ―発生施設」として挙げられるのは、高齢者福祉施設がほとんどだろう。

このような話が取り上げられる度に、感じることなのだが「科学の力で解決できるなら、科学の力を借りる」ということを何故しないのか?ということだ。
「新型コロナ」の感染拡大が問題になり始めた2020年には、既に「UVC紫外線照射による新型コロナの不活性化」が認められている。
藤田医科大学:UVC紫外線照射装置による新型コロナウイルスの不活性化を国内初確認 

「マスク着用が難しい人達」が集まりやすいところだからこそ、このような装置を積極的に設置させることで、現在に至るまでのクラスタ―の発生を抑制させることができるはずなのだ。
より有効性を確認するための「大規模実証実験」の募集を政府が行ったような記憶がないし、このようなクラスタ―が発生しやすい施設に設置補助などを実施した記憶もない。

現代ビジネスの記事を読んでいても感じるのは、「気合と根性で、難局を乗り切る」ということなのだ。
「気合と根性で、難局を乗り切る」というのは、決して美談ではないと思う。


「アフターコロナ」のケアを始めよう

2023-07-11 20:47:49 | ライフスタイル

今朝、FMを聞いていたら、「コロナ禍と未就学児の発達」というテーマの話があった。
元となっているのは、朝日新聞の記事のようだ。
朝日新聞:コロナ禍で年長クラスに4カ月の発達の遅れ 専門家「無視できない」 

今年のGW明けに、2類相当から5類・季節性インフルエンザと同等、という新型コロナの感染症対応基準が変わった。
既にマスクなどをしなくても良い、という状況にもかかわらず、今でもマスクを着用して通学する高校生の姿を見かける。
高校生だけではなく、小学生くらいの子ども達の中にもマスク姿を見かける事がある。
連日の猛暑で、熱中症で倒れるのでは?と、心配をするのだが、マスクをすることそのものに疑いを持たなくなってしまったのかな?と、熱中症の心配とは違う心配をしている。

今回発表された内容を読むと、センセーショナルとまでは言わないが、子ども達の将来への不安を感じてしまうのだ。
大人の4カ月と未就学児の4カ月では、その間に蓄積されるモノ・コトの量が違う。
様々な刺激を体全体で受け、経験から得られる情報の蓄積、知識量など驚くほど多いのが、未就学児と呼ばれる時期だからだ。
その貴重な時間を奪ってしまった、というのが「コロナ禍」という時間でもあった、ということになる。

既に、「コロナ禍」による就学児童の学力面などの問題が、指摘されている。
学力面だけではなく、おそらくコミュニケーション力や様々な認識力などについても、「コロナ禍」前の就学児童よりも低下しているのでは?と、考えられる。
であれば、失われた4カ月分をいかに取り戻すのか?ということが、「アフターコロナのケア」ということになる。
いきなり、4か月分の刺激を与えるなどということが、できるはずがない。
とすれば、この夏休みなどは積極的に自然の中へ友達と出かける機会を設けるような工夫が、必要になるのでは?

例えば、「コロナ禍」まで人気の高かった「サマーキャンプ」。
子ども達が参加したい!という希望もあったと思うのだが、「サマーキャンプ」を「学童」替わりに活用していた、という親御さんもいらっしゃったはずだ。
そのような場合、夏休み期間中、夏休みの宿題+サマーキャンプ(+お盆の帰省)という、スケジュールになる。
実は毎年夏休み期間中、自宅近くの幹線道路脇に「サマーキャンプ」バスが停まっていて、何度も参加するお子さんの姿を見かけたことがあるからだ。
それも、一人二人ではなかった。
学校以外の友達ができる、というメリットもあると思うが、何となく「それでいいのかな?」という、印象を持つ子ども達もいた。
だからこそ、「アフターコロナ」の「サマーキャンプ」は、これまでとは違う発想で行う必要があるのでは?と、思うのだ。

親御さんが1ヵ月子ども達と一緒に過ごす、ということはできる事ではないが、企業も協力して「アフターコロナの子どもケア」に取り組むことが、「働き方改革」に繋がるかもしれない。
それこそ、リモートワークを復活させ、仕事をする時間についても企業に合わせるのではなく、子どもの生活時間に合わせるような取り組みをしてみても良いかもしれない。
あるいは、リタイアしたご近所の方々の力を借りて、日常の中の自然を楽しむサポートを地域ぐるみで行う、という新しい地域コミュニティーをを創るチャンスかもしれない。

まず、大人が若い人たちに「マスクを外した、若々しく素敵な素顔が、社会を楽しくする」ことを、社会として訴求しても良いのでは?
それがスタートかもしれない。


「糟糠の妻」や「良妻賢母」に縛られてはいないか?

2023-06-22 20:12:07 | ライフスタイル

「国際婦人年」を前に、毎年発表される「ジェンダーギャップ」。
今年の日本は、過去最低の125位だったようだ。
朝日新聞:男女平等、日本は世界125位で過去最低 ジェンダーギャップ報告 

これまでも日本のジェンダーギャップについては、先進諸国の中でも低い順位にあった。
そして、毎年のように下がっていった、という印象を持っている。
順位が下がった理由は、おそらく諸外国の改善努力の結果なのでは?という、気がしている。
言い換えれば、この「ジェンダーギャップ報告」がされるようになってから、日本は男女平等について努力をさほどしてきていない、ということなのだと思う。

では何故、ジェンダーギャップ報告が毎年され、問題点の多くが指摘されながら改善されないのか?という点が、一番の問題なのではないだろうか?
その背景にあるのが「糟糠の妻」や「良妻賢母」という、結婚した女性に対する理想像を未だに社会が信じている、ということのような気がする。

「糟糠の妻」というのは、経済的に豊かではなくても、しっかり家計を運用する能力の高さを示す意味がある。
いかに少ない収入であっても、無駄を出さず、家計をやりくりできる、優秀な主婦像だ。
このような、少ない収入であっても家計をやりくりできる能力があれば、今の時代多くの企業の経営陣が必要としている能力のようなものだ。
それは、赤字国債を発行し続け、これと言った経済政策を打つことができない政治家や官僚についても、求められる能力かもしれない。
「良妻賢母」についても、良きパートナーであり、賢い養育者と考えれば、その能力は今の社会に求められている能力だと言えそうだ。
それらの言葉を家庭と結びつけ、縛り付けているのだとしたら、社会的損出だろう。

にもかかわらず、それらの優秀な能力を活用できないのは、ある種の固定観念に縛られているからなのでは?
一つは、主婦は社会参加の対象者ではない、という思い込みだろう。
もう一つは、これらの言葉の中には「無償」が含まれている、という点だろう。
それは「父権主義」という社会文化の中だったからこそ、暗黙の了解として、認められてきただけに過ぎない。

いずれにしても「糟糠の妻」も「良妻賢母」も、家庭という場に限定して使われる言葉だ。
確かに、社会経験のない主婦が、いきなり企業で仕事を始めても、戸惑うばかりで仕事にならない、ということは度々起こるだろう。
それは「企業で働く」という、経験の無さからきていることなのだが、年功序列的な感覚でいえば、「歳だけ取った未経験者」は労働力として下に見られても当然、という暗黙の了解があり、十分なスキルアップのチャンスさえ与えられていない、という場合も多々あるのでは?

上述したように、「糟糠の妻」や「良妻賢母」と言った能力は、むしろ性別を問わず経営者や政治家に求められる能力の一つ、なのではないだろうか?
男性優位、権力主義的「父権主義」に固執する思考が続けば、日本の力(特に経済面)が低下し続けるような気がするのだ。
まぁ、(か弱い)女性の一生を庇護し続けてくれる男性を求める女性がいる、ということも確かだとは思うのだが…。




「糟糠の妻」や「良妻賢母」に縛られてはいないか?

2023-06-22 20:12:07 | ライフスタイル

「国際婦人年」を前に、毎年発表される「ジェンダーギャップ」。
今年の日本は、過去最低の125位だったようだ。
朝日新聞:男女平等、日本は世界125位で過去最低 ジェンダーギャップ報告 

これまでも日本のジェンダーギャップについては、先進諸国の中でも低い順位にあった。
そして、毎年のように下がっていった、という印象を持っている。
順位が下がった理由は、おそらく諸外国の改善努力の結果なのでは?という、気がしている。
言い換えれば、この「ジェンダーギャップ報告」がされるようになってから、日本は男女平等について努力をさほどしてきていない、ということなのだと思う。

では何故、ジェンダーギャップ報告が毎年され、問題点の多くが指摘されながら改善されないのか?という点が、一番の問題なのではないだろうか?
その背景にあるのが「糟糠の妻」や「良妻賢母」という、結婚した女性に対する理想像を未だに社会が信じている、ということのような気がする。

「糟糠の妻」というのは、経済的に豊かではなくても、しっかり家計を運用する能力の高さを示す意味がある。
いかに少ない収入であっても、無駄を出さず、家計をやりくりできる、優秀な主婦像だ。
このような、少ない収入であっても家計をやりくりできる能力があれば、今の時代多くの企業の経営陣が必要としている能力のようなものだ。
それは、赤字国債を発行し続け、これと言った経済政策を打つことができない政治家や官僚についても、求められる能力かもしれない。
「良妻賢母」についても、良きパートナーであり、賢い養育者と考えれば、その能力は今の社会に求められている能力だと言えそうだ。
それらの言葉を家庭と結びつけ、縛り付けているのだとしたら、社会的損出だろう。

にもかかわらず、それらの優秀な能力を活用できないのは、ある種の固定観念に縛られているからなのでは?
一つは、主婦は社会参加の対象者ではない、という思い込みだろう。
もう一つは、これらの言葉の中には「無償」が含まれている、という点だろう。
それは「父権主義」という社会文化の中だったからこそ、暗黙の了解として、認められてきただけに過ぎない。

いずれにしても「糟糠の妻」も「良妻賢母」も、家庭という場に限定して使われる言葉だ。
確かに、社会経験のない主婦が、いきなり企業で仕事を始めても、戸惑うばかりで仕事にならない、ということは度々起こるだろう。
それは「企業で働く」という、経験の無さからきていることなのだが、年功序列的な感覚でいえば、「歳だけ取った未経験者」は労働力として下に見られても当然、という暗黙の了解があり、十分なスキルアップのチャンスさえ与えられていない、という場合も多々あるのでは?

上述したように、「糟糠の妻」や「良妻賢母」と言った能力は、むしろ性別を問わず経営者や政治家に求められる能力の一つ、なのではないだろうか?
男性優位、権力主義的「父権主義」に固執する思考が続けば、日本の力(特に経済面)が低下し続けるような気がするのだ。
まぁ、(か弱い)女性の一生を庇護し続けてくれる男性を求める女性がいる、ということも確かだとは思うのだが…。




GWだから考えたい「大人の教養」?

2023-05-03 21:01:31 | ライフスタイル

今日からGW後半戦、ということで5日間の連休を楽しまれている方も多いと思う。
今年は(実質)「コロナ禍」から、解放された大型連休ということで、自粛されていた全国各地のお祭りも4年ぶりに開催しているところも多いようだ。
当然だが、人の往来も「コロナ禍」前のようになり、全国各地の観光地も賑わっていると、ニュースなどでは報道されている。

そんな大型連休だからこそ、いつもとは違う分野について少しだけ興味を持つのも良いのでは?と、朝日新聞のWebサイトの記事を読んだ。
朝日新聞:江戸時代の武士にも必要な教養 奥深い和菓子の魅力 

この記事を読んで思い出したのが、実家の菩提寺がある松江だった。
ご存じの方もいらっしゃると思うのだが、松江は京都・金沢に次ぐ和菓子の銘菓が多いと言われている。
その理由が、松江藩主であった松平治郷が自ら「不昧流(「ふまいりゅう」と読む)」という流派をつくり、松江城下に「茶の湯」を広めたことにある。
山陰中央新報:大名茶人松平不昧公 松江の茶の湯

茶の湯の文化があるからこそ、和菓子文化もまた発達した、ということだろう。
確かに京都は茶の湯文化発祥の地であり、金沢がある旧加賀藩は、茶の湯を文化奨励としていた。
そのような茶の湯文化と大きく関わっているのが、茶席で出される和菓子ということになるだろう。

では、今はどうなのだろう?
実は、昭和の政治家や経営者の多くは、茶の湯をたしなむ方が少なくなかった。
「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助などは、わざわざ京都の南禅寺近くに茶室を中心とした別邸「真々庵」をつくり、来訪者を茶の湯でもてなした、と言われている。
もてなすだけではなく、松下幸之助自身の思い考える場でもあった、とも言われている。
政治の世界では、そのような場というよりも豊臣秀吉から続く、「社交の場」としての茶の湯があったのかもしれない。
それが今でも続いているのか?と言われれば、おそらく違うだろう。
社交の場としての茶席は無くなり、大掛かりな「パーティー」の方が、効率よく政治資金を集める事ができるだろうし、料亭で話をおすれば良いからだ。
料亭と言ってもそれなりの格式あるところであれば、茶の湯の作法位知っておく必要があるかもしれないが、バブル経済崩壊後はそのような場所も無くなりつつあるのではないだろうか?

そのように考えると、かつては女性の嫁入り作法の一つとしての「茶道」ではなく、むしろ男性の中でもそれなりの社会的地位の有る人たちにとっての「茶の湯」があり、「茶席」があったともいえそうだ。
ただ残念なことに、今は男女問わず「茶の湯」や「茶席」という場そのものが、遠いモノとなっている。
茶の湯を引き立てる和菓子にしても、一般的な生クリームやバターを使う洋菓子よりもカロリーが低く腹持ちも良い、という理由で和菓子を選ぶ女性は多くなっている。
茶席のような抹茶ではなく身近な煎茶であっても、今は急須でお茶を淹れる家庭は少なくなっているはずだ。
むしろ、ペットボトルのお茶しか飲んだことがない、という若い方もいらっしゃるかもしれない。

そう考えると、茶席のような場所に行くには、それなりの作法という「教養」が必要であり、その「教養」は日本文化を知るという意味でも重要なことかもしれない。
グローバルなビジネス社会だからこそ、「日本文化に対する知」は今のビジネスパーソンに必要な「教養」のような気がする。

 


的外れな発言が提議した問題

2023-01-30 20:31:39 | ライフスタイル

先週末、岸田首相が「育休期間中のリスキング(学び直し)を後押しする」という発言が、批判を浴びている。
毎日新聞:岸田首相「育休の学び直し」答弁に批判 「育児をしていない人の発想」 

そもそも育児休暇は、乳児である子どもを育てる期間なので、その期間を利用して「学び直し」を後押し、という発想は「違うだろう!」という批判が出ても仕方ないと思う。
まして乳幼児という期間は、決められた時間に出社して仕事をする、というようなスケジュールが組めるわけではない。
幼稚園に上がるくらいまでは、親としての時間はあってもビジネスパーソンという時間は、ほぼないに等しいはずだ。
そして長い間、この期間に男性が時間を割いて乳幼児と過ごす、ということは「ビジネスパーソンとしてあり得ない」という、社会的慣習が当たり前とされてきた。
いくら岸田首相が「育児をしたことはある」と言われても、この発言を聞く限りでは「育児って、気が向いた時に抱っこした程度なのでは?」と、思われても仕方ないような気がする。
朝日新聞:子育て「私も経験した」岸田首相、育休中のリスキング発言を釈明 

岸田首相の「育休期間にリスキングを勧める」というのは、育児の現実が分かっていない、と思うし批判も当然の事だろう。
ただ、視点を変えて「リスキング」という点について考えた時、「社会人が学ぶ」ということの重要性という指摘は、あながち間違っていないのでは?という気がしたのだ。

これまでのような「年功序列」で勤め人人生が終わるのであれば、ある程度の規模の企業や公務員に就職すれば「安泰」ということになる。
バブル経済が崩壊してから、「年功序列」という時代は終わり、「成果主義」へと転換した。
その「成果主義」という名前のもと、企業は「リストラ」という首切りを躊躇なくするようになった。
今や大企業に勤めていても、「将来安泰」という時代ではなくなったのだ。
加えて、一昨年あたりから「副業禁止」としてきた大企業が、方針転換をし「副業歓迎」ということを打ち出した。
「副業歓迎」の狙いには、一つの企業にいるだけでは物事の考え方が偏るのでは?という危機感と給与そのものを上げる事が難しくなってきたので、副業で生活費維持をしてください、ということがある、と言われている。
企業側の本音は、はっきりとしないがおそらく後者の考え方が本音で、建て前が前者なのだろう。
建て前の部分だけを読めば、日本のビジネスパーソンは就職してしまえば、自らスキルアップのための学びに投資をしていない、ともとれるのだ。

確かに、大手企業では従業員のスキルアップを目的とした「通信教育講座」を推奨し、受講者には一定の補助金を出している。
これらの通信講座の目的は「資格取得」であり、リスキングと言ってよいのか?という気がしている。
よりアカデミックで専門的な知識を得よう!とすると、やはり大学や大学院のようなところで、学びたい!というビジネスパーソンもいるのでは?と考えた時、日本の大学や大学院で社会人が学ぶハードルが高い。
授業料の高さもさることながら、「一括入試」と言われるように、年1回の受験時期に合わせて受験をしなくてはならない。
だからと言って、休職をしてまで大学や大学院に通わせてくれるような企業などは、ほとんどないだろう。

そう考えると、岸田首相の言う「リスキング」の機会は、ほとんどないということになる。
もし、岸田首相が本気で「リスキング」ということを考えるとすれば、それは「育休期間」ではなく、全ての社会人を対象として考えるべき事なのだ。
その管轄となるのは、厚労省ではなく文科省なのではないだろうか?




「新型コロナ」の2類相当から5類へと変わる事で、生活も変わるのか?

2023-01-20 20:35:56 | ライフスタイル

昨夜から、岸田首相が「現在の新型コロナに対する2類相当から5類への移行を検討指示」という、ニュースが世間をにぎわしている。
日経新聞:コロナ、この春にも「5類」移行 岸田首相が指示

5類というと「季節性インフルエンザ」と同じ(医療)対応、ということになる。
これまでのように、「体調が悪ければ、最寄りの診療所(やクリニック)に行き、医師が直接診察をし場合によってはPCR検査や抗体検査を行う」というレベルに引き下げる、ということでもある。
リンク先の日経新聞Webには、わかりやすい「2類相当と5類」についての表があるので、詳細はそちらで把握していただく、ということになる。

このような政府の動きに対して、日本医師会からは「ワクチンやPCR検査などは、これまでと変わらず国の負担にすべき、という意見が出たようだ。
TBS News DIGITAL:日本医師会・松本会長、岸田総理にコロナ「5類」見直し後も公的負担継続を要望 

積極的に「新型コロナ」の陽性者を受け入れてきた病院は、ベッド数のようなハード面だけではなく、医師や看護婦の不足ということが、再三言われえてきた。
そのような病院に対して、政府は「補助金」を出してきた。
結果として、赤字続きであった病院が黒字化する、ということもあったようだ。
朝日新聞:コロナ補助金 病院黒字化 病床使用5割以下でも交付も 会計検査院 

この調査の対象となった多くの公立病院にとって、「新型コロナ」の感染拡大は経営という側面だけを見れば、良かったのかもしれない。
しかし、このような報道が出てしまったことで「新型コロナで生活者は苦しい思いをしているのに、病院が儲けるなんてどういうことだ!という、怒りのようなものを持つ人達がいることも、確かだと思う。
そのような生活者感情を考えれば、今回の医師会の要望は受け入れらるのだろうか?という、疑問を持ってしまう。

と同時に「新型コロナ」の感染拡大によって、「新しい生活様式」なるモノがすっかり浸透してしまった今、「5類になったので、屋内でのマスクは不要になります」と、言われたところでマスクを簡単に外す事ができるのだろうか?という、気がしている。
私のように「マスクをすると頭痛がする」という人にとって、マスクを外すことは歓迎すべき事ではあるのだが、マスクをする生活に慣れてしまった人の中には「自分の顔を晒す」ということに抵抗感を持つ人もいるのでは?
事実、昨年の春ごろ感染者が減った頃に「暑くなる前にマスクを外したらどうか」という、話題があった。
この時「マスクを外す勇気がない」とか「お化粧をするのが面倒くさい」などの理由で、「新型コロナが収束した後でもマスクを外したくない」という人達が、一定数いた。
人は一度見についてしまった「便利な事」を手放す事が難しい、ということなのだと思う。
おそらく、「新しい生活様式」の中で推奨された事の一部(例えば、体調が悪い時には無理をせず休むなど)は残り、生活で不便を感じるようになった行為が、ゆっくりと無くなっていくのだろう。
それで良いと思うし、国や周囲から強制されるものではない。
ただ「自分と違う」ことで、非難をすることだけは止めて欲しいものだ。



少子化と未婚者増加の因果関係

2022-12-23 19:59:55 | ライフスタイル

朝の支度をしながら、聞き流しているFM番組。
拙ブログでも何度か、話題のテーマとして取り上げさせていただいている。
そのFM番組を聞いていたら「なるほど、確かに」と思う話題があった。
それは「少子化は女性が出産しない、という問題ではない」という話題だった。

これまで、「少子化=一人の女性が出産する人数の減少」ということが、再三言われてきた。
確かに「少子化」の一つの指標として、一人の女性が生涯何人出産するのか?という統計によって、判明した数字が「1.30人」だ。
ELEMINIST]:【2022年】日本の出生率 少子化が加速する日本と世界の動向 

一方で、結婚をした女性が生涯に出産する子どもの数そのものは、大きく変わっていないという指摘もある。
何故なら、1000人当たりに対する出生数は、決して少ない数字ではないからだ。
そう考えると、既婚者の出産人数は変わらなく、15歳~49歳の女性が結婚をしていない為に、「合計特殊出生率」が大幅に低くなっている、ということも分かるはずだ、
先日聞いていたFM番組で指摘していたのは「少子化=合計特殊出生率」の数字から言われていることで、見方を変えると「既婚者が少ない為に、合計特殊出生率」が下がっているのでは?という、内容だった。

とすれば、「結婚する人を増やす」ということが、まず優先になるのでは?ということなのだ。
法的な制度を整え「事実婚」を選択したカップルに対しても、婚姻と同等の法的メリットがあるようにする、ということも重要だろう。
ただ、結婚について男女とも「出会いがない」ということも、言われている。
結婚する前に、出会える機会が無ければ(事実婚を含む)結婚そのものはできない。
昭和の頃に様に「お見合い話」を持ってきてくれるような人が、いれば「恋愛結婚」にこだわる必要もなく、結婚することができただろう。
「コロナ禍」以前、話題になった「親のお見合い会」のような、親同士が先に顔を合わせ、話をすることでその後の子ども同士の見合いが、スムーズに進む、というサービスがあった。

それが「コロナ禍」となり、気軽に「親同士のお見合い会」のような会をセッティングすることが難しくなり、代わりに登場したのが「マッチングアプリ」ということになるらしい。
「マッチングアプリ」が登場した頃は、既婚者が浮気相手を見つける目的で、偽のプロフィールを登録する、ということもあったようだが、今ではそのような問題な点を、登録時に様々な本人資料などを提出させるなど、個人情報の保護に気を付けながらも大手マッチングアプリサイトは、業績好調だという。
このようなマッチングアプリを使った婚活を行政も始めている、という話もあるようだ。

その理由として挙げられるのは、「マッチングアプリ」を登録するときに、最初から「相手に望むこと」や「自分のプロフィールの一部公開」などをすることで、趣味を含むある程度のパーソナル情報を知る事ができるので、相手を見つけやすく、成婚にも至りやすい、ということのようだ。
いわば「今のお見合いシステム=マッチングアプリ」になりつつある、ということのようだ。

「少子化」」という問題は、単に女性が子どもを出産するコトで片付く問題ではない。
「専業主婦」という言葉が、過去の言葉になりつつあるように、男性も女性も「結婚後の生活」や「産後の働き方」など、社会も企業も当事者である男性と女性の意識が変わらなければ、「1.3ショック」ともいえる「少子化」に歯止めをかける事は難しいのでは?という、気がした。




「コロナ禍」が、働き方を強制的に改革した?

2022-10-18 21:05:55 | ライフスタイル

今朝、FM番組を聞いていたら、企業の人事が大きく変わろうとしている、という話題があった。
日本の企業の多くで見られるような「メンバーシップ型人事=組織型人事」から、「ジョブ型人事=職能人事」へと変わろうとしている、という内容だ。
このような話というのは、取り立てて目新しい話題ではない。
「成果主義」という言葉が注目されるようになってから、盛んに「年功序列を重視した組織型人事では、企業は成長しない。これからは職能を重視したジョブ型人事にして、若い世代が活躍できるような組織づくりが重要だ」と、言われ続けてきた。
このようなことが盛んに言われていた頃、多くの企業はその旗振り役担当者が、年功序列の考えから離れられず、うやむやのうちに終わってしまった感がある。

このような「ジョブ型人事」ということが盛んに言われてから10数年経ち、日本に新しい波が押し寄せてきた。
その波は、これまでのような米国などから言われて渋々のように変わらされてきた「外圧」ではなく、「新型コロナ」という感染症だった。
ご存じの通り、「新型コロナ」が流行しはじめると、政府から「極力出勤をせず、リモートなどで仕事をする」ということが推奨された。
「リモートワーク」という状況下で問題になったのは、「社員の帰属意識」だった。
職場に出勤することなく、自宅でZOOM会議と呼ばれるPC画面に向かって、会議をするようになると、会議室での会議とは違い「席順による上下関係」が薄らいでいった。
事実、リモート会議が盛んにおこなわれるようになると「画面表示の上下関係」ということが、話題になったりした。
もちろん、リモートワークが長く続くことで起きる、様々な弊害も指摘されるようになってはきているが、「リモートワーク」によって、「働く場所」について、これまでとは違う考え方がされるようになってきたのも、また事実だろう。

このように「働く場所」が限定されなくなると、「転勤」という考え方も変わり始めてくる。
「リモートで仕事ができるのなら、転勤をしなくても仕事はできるのでは?」ということなのだ。
東京の事務所で、地方にある営業所や支店の仕事をする、ということが可能になった、ということでもある。
また逆に、地方にいながら東京の仕事ができる、ということにも繋がっていくはずだ。
営業職であっても、これまでのような「対面でなくてはならない」という、固定観念を変えるような状況を「コロナ禍」が、半ば強制的に作ってしまった、ということでもある。

もちろん「対面で仕事をする」というメリットも、数多くある。
その一つが、言葉に頼らないコミュニケーションだろう。
ZOOM会議のように、言葉中心のコミュニケーションでは伝わりきらない部分を、例えば些細な表情など敏感に感じ取ることができる、という能力もまた人に与えられたコミュニケーション力の強い部分でもあるからだ。
とすれば、リモート+出社型という働き方がスタンダードになっていくと、年功序列のような上下関係は徐々に崩れていくような気がしている。
それが最終的に、「年功序列型人事」から「職能型人事」へと変わっていくことになるような気がしている。
と同時に、企業内の「肩書」の意味も変わっていくのではないだろうか?





「注目を浴びる」ことと行動の不一致

2022-10-16 22:04:30 | ライフスタイル

2,3日前、ネットニュース等でも取り上げられていた、イギリスの美術館で起きた「暴挙」。
ニュースの内容を読むと、暴挙の理由はわかるのだが、その行動がチグハグ過ぎて「この人達は本当は何をしたかったのだろう?」という、疑問がわいてくる。
Huffpost:ゴッホの代表作「ひまわり」にトマト缶をぶちまけた環境活動家を逮捕。化石燃料の新規プロジェクト停止を要求 

このニュースを知った時、「何故ゴッホの『ひまわり』?」という、疑問がわいた。
確かに、ゴッホの「ひまわり」は、人気のある作品だ。
バブル期には、一時期日本の企業が所有をしていたこともあったという、記憶がある。
それほど、ゴッホの代表作であることには、代わりない。
ただ、ゴッホの出身地は英国ではなく、オランダだ。
その意味では、英国とは全く関係がない。
著名な作品を傷つける事で、自分たちの行動に注目が浴びる、という考えだとしたら、それは稚拙な行動であった、ということだろう。

それが例えば、英国の画家・ターナーであればそのインパクトは、とても大きかったはずだ。
もしくは、ヴィクトリア&アルバート美術館に収蔵されている、アーツ&クラフトの推進者であった、ウィリアム・モリスの作品であれば、その意味も違ったことだろう。

それが、オランダの画家・ゴッホの「ひまわり」ということになれば、ゴッホや作品の「ひまわり」に対する同情のようなものは起きても、トマト缶を投げた環境活動家に対しては、冷ややかなというか半ば呆れたような印象しか持たないのでは?
それが世間の見方のような気がするのだ。
そのようなことまで考えた行動だったのだろうか?
とても、そこまで考えていたとは思えないのだ。

時として人は「注目を浴びたい」という思いから、突飛もない行動を起こすことがある。
そのこと自体を悪いという気はしないし、誰しも「注目を浴びたい」という気持ちは、大なり小なり持っていると考えている。
その「注目を浴びる」ということの先のことを考えるのが、世間の多くの人たちだろう。
「『自己満足的な行動』だと、世間から失笑を買うのでは?」とか、「良い意味での注目を浴びる為には、どうすれば?」と、考えるため躊躇してしまう。

それが「注目を浴びる」という一点だけにこだわってしまうと、世間からの共感を得る事なく、失笑のネタとなってしまうのだ。
今回のように、美術館に収蔵されている作品を傷つけたということになれば、犯罪行為となってしまう。
とりもなおさず、「環境団体と言っても、自分たちの行動が美術館の環境を壊している」ということになっている。
短絡的な「注目を浴びる」という手段ではなく、他の「注目を浴びる」という方法があるとすれば、それがプロモーション(=広告)ということになるのだろう。

個人的には、何故、ゴッホの「ひまわり」だったのか?、理由が聞きたい事件でもある。