「保育園に落ちた!」という匿名のブログが、国会でも取り上げられ、改めて「保育園や保育士不足」という問題が、クローズアップされた。
一方、先日千葉県市川市では、認可予定であった私立の保育園が周辺住民の反対で、建設を断念した、というニュースが取り上げられていた。
讀賣新聞:住民「看板設置前に説明なく、唐突」・・・保育園断念
この市川市の場合、道幅が狭いなどの問題があったようだが、保育園などの建設で問題になるのは「周辺住民の静かな暮らし」という点という気がする。
「子どもたちの声が、うるさい」ということが、よく言われている点はご存じの方も多いと思う。
その「子供たちの声」だが、以前は普通に暮らしの中にあったような気がする。
その理由は、各世帯に「子どもがいた」からだ。
その「子ども」が成長し、親元から離れ別世帯を持つと、その家には「子どもの声」が無くなる。
時折、孫を連れてくれば「子どもの声」を聞くことになるが、そのような世帯ばかりではない。
言い換えれば「子どもの声が聞こえない地域」というのは、高齢者世帯が多い地域、あるいは単身者が多い地域、ということになるのではないだろうか?
ただ、単身者の多くは、昼間は仕事をしているので「保育園の子どもの声」というのは、気になるようなことはほとんどないだろう。
もちろん仕事によっては、夜勤などの関係で「昼間ゆっくり休みたい」という方も、いらっしゃるとは思うのだが、多くの場合、高齢者世帯なのでは?
それだけではなく、地域コミュニティーが希薄になりつつある高齢者世帯なのでは?という、気がするのだ。
そう考えると「保育所建設反対」を訴える人達の多くが高齢者である、という点も納得がいく。
もう少し違った視点で考えると、このような「保育園建設」で問題が起きやすい地域は、高齢者世帯が多いだけではなく、数年~10数年後「空き家問題」を抱える地域になりやすい可能性があるのでは、ないだろうか?
何も「過疎地」と、呼ばれるような地域だけの問題ではない。
築年数の古くなった都市部の公団団地などでも、見られる現象なのでは?
当然のことながら、買い物をするためのお店なども撤退し、生活に不便をきたすようになる可能性もあるだろう。
とすれば今から、積極的に「若い世帯」を受け入れるような取り組みをしていかなくては、一つの地域としてのまとまりが無くなっていく可能性があるような気がするのだ。
例えば「保育園と高齢者ケア施設を併設」するなどして、日ごろから子どもと高齢者が交流できるような取り組みがあれば、「子どもの声がうるさい」という苦情は、減っていくのではないだろうか?
何より「子どもたちが元気に遊ぶ地域」というのは、その地域全体の活気がある、ということだと思う。
かつてのように、複数世代の同居が当たり前だった頃は、家の中で自然に「世代交代」が行われてきた。
しかし今は地域全体の問題として、積極的に取り組まなくては「地域の世代交代」が行われにくい、ということだと思う。
「保育園建設問題」というのは、単なる「苦情で断念」というだけでは終わらない、問題が隠れているような気がする。
昨日、自民党の国会議員さんが「進学しても、女の子はキャバクラへ」という発言をした、と報道されている。
朝日新聞:「進学しても女の子はキャバクラへ」自民・赤枝氏発言
新聞などで報道される内容が、発言のすべてではないにしても、なんとも心無い発言だ。
この発言をした議員さんが指摘している通り、日本の義務教育は中学校まで。
中学を卒業すれば、その後の進学については生徒自身の選択となる。
しかし、今時中学卒業をしてすぐに採用してくれる企業というのは、限られている。
いうなれば「職人」を目指すような職業であれば、中学を卒業をしても社会人として通用するだけのモノを身につけることができる。
実際のところ、そのような仕事に就きたいという生徒はほとんどおらず、高校に進学するのが当たり前のようになっている。
そして大学へ進学したい、という希望をする生徒も決して少なくない。
都市部と地方の大学進学率の差の一つは、地方から都市部の大学へ進学させるための経済的負担が大きい、ということもあるのでは?と、思っている。
実際、私の高校時代でも、大学進学を希望していながら経済的理由で、進学をあきらめた優秀な生徒がいた。
そのような「進学の夢」をあきらめさせないためにあるのが、「奨学金制度」であったはずだ。
ところが今では、「奨学金制度=社会人になる前に抱える高額な借金」という、状況になってしまっている。
そのような「借金」を抱えないために学生生活を送る手段として、いわゆる「水商売」でアルバイトをする女子学生が、最近多くなっている、という実態があると聞いている。
決して本人たちが「学業よりもアルバイトを優先している」訳ではないと思っている。
確かに、バブルの頃は「学業よりもアルバイト優先」で、1留する学生は多かったと聞く。
当時の学生の中には、「学生時代は遊ぶもの」と言う風潮があったコトも確かだ。
それが、バブルが崩壊して以来、学生への仕送り金額は、減り続け「生活をするためにバイトをする苦学生」が増えている。
親元から通学できる学生であれば、まだ経済的負担は少ないと思われるが、地方から都市部の大学へ進学してきている学生からすれば、親の負担の大きさなどを心配しつつ学生生活を送っている学生が多いのでは?
それを助けるための「奨学金」が、今や「高額な借金」となってしまっている、というのが問題の本質であって、赤枝議員が言うような「キャバクラでバイトをする」ということが、問題ではないのだ。
まして、対象としているのが「女の子は・・・」という部分も気になる。
赤枝議員という方は、産婦人科医だというが「このような医師に、赤ちゃんを取り上げてもらいたくない」と思う女性は多いのではないだろうか?
どこか、女性を見下げたような態度がうかがえるからだ。
「大学進学の夢をあきらめない。あきらめさせない。」ための「奨学金制度を検討会合」での発言だとしたら、なんとも的外れな発言だと思う。
赤枝議員はご存じないかもしれないが、OECD加盟国中、日本は一番子供の教育にお金を使っていない国なのだ。
HUFFPOST:教育への公的支出日本は最下位 奨学金精度が鍵=OECD報告
国会議員という立場であれば、子どもへの社会的投資は国の未来へと投資という発想があっても不思議ではないと思うのだが、どうやらこの方に限らず日本のオジサン国会議員の中には、自分以外の人たちを蔑視することが「国会議員としての才」だと思っているよな気がする。
昨年ヒットした新書の一つに、「京都嫌い」があった。
実際に読んでみたのだが、正しくは「洛中嫌い」と言ったほうがよいのでは?という内容だった。
その「京都嫌い」の最後のほうに、「敗者を弔う」という内容があった。
実際、京都に行くと時の権力闘争に負けた人物たちを弔う、神社などをいくつも見かける。
その中で一番有名なのは、「北野天満宮」だろう。
ご存じのとおり「北野天満宮」は、菅原道真が大宰府に左遷される前に住んでいた屋敷跡に造られた、と言われている。
時の権力争いに負け、大宰府に左遷され失意のうちに、その地で亡くなった菅原道真。
亡くなった後、京都では疫病が流行したり、天変地異などが起きたため、菅原道真を鎮魂するために「神様」として崇め、造られたのが「北野天満宮」だと言われている。
考えてみれば、江戸時代の頃までは「敗者を弔う」という気持ちが、日本人の中に当たり前のようにあった。それが、明治になり「勝者を崇めるようになった」という内容が、指摘されていたのだ。
全国各地にある「豊国神社」や何かと問題となる「靖国神社」などは、その一例だろう。
ところで、昨日広島で行われていた「G7外相会議」の後、出席をしていた外相が揃って「広島平和記念公園」で、献花をささげた。
第2次世界大戦の戦勝国で、核兵器保有国である米・英・仏の外相が、「広島平和記念公園」に行くということは、今までなかった。
何度か期待を込めて話題に上ることはあっても、実現をしたことはなかった。
その理由として挙げられる一つは、「広島に行く=原爆投下に対する謝罪」という、受け止められ方が米国でされてきたからだろう。
実際、昨日ケリー国防相は「謝罪ではない」と、コメントを発表している。
では、広島や長崎の被爆者を含めた多くの人たちが「謝罪を期待していたのか?」と、考えるとおそらく「謝罪」ではなく「あった現実を直視するコトで、原爆がもたらした悲劇を知ってほしい」という、気持ちのほうが強かったのではないだろうか?
そこには、日本人古来の「敗者を弔う気持ち」も含めて、「(亡くなった)人に対する尊厳や尊敬、喪った人を思う生きている人に心を寄せる」という、人としてもっと根源的なモノを求めているのでは?と、思っている。
では、なぜ米国では「謝罪」ということにこだわっていたのは?
様々なところで指摘されているが、「原爆が、戦争終結を早め、そのコトによって日本が救われた」と、思っている人がいまだに多いからだろう。
「良いことをしたのに、なぜ謝る必要があるのか?」という、ある意味とてもシンプルな考えの基に立った考えのようにも思える。
このような考え方の違いが、これまで各国首脳・元首たちが広島を訪れなかった理由だとすれば、とても残念なことだと思う。
そして、そのような「考えの違い」を海外メディアはどのように伝えたのだろうか?
献花の前にあったG7外相夫人たちの被爆者との対面などでは、海外メディアは1社も来なかった、という報道もあった。
ニュースとしては、面白味のないモノかもしれないが、このようなニュースこそ積極的に日本側が海外メディアに働きかける必要があったのではないだろうか?
ただ、影響力のあるケリー国防相が「広島を訪れるべきだ」と、発言された意味はとても大きいと、感じている。
毎日新聞のWEBサイトに、「下水汚泥から発生するバイオガスから水素生成、発電自動車燃料に国交省試み」 という見出しがあった。
記事そのものは、WEB会員限定のようだがこの「下水汚泥」を使ったバイオガスの利用というのは、随分前に確立した技術だと聞いたことがある。
確かに全国に広がる高速道路網に点在するSAやPAの下水汚泥を利用するのは、良いと思う。
何といっても「原価ほぼ0円」だ。
設備投資の費用を考えても、原材料費ほぼ0円というのは魅力的だと思う。
もちろんランニングコストなどの「維持費」は必要だと思うが、利用者側から見ても「エネルギー代」そのものが、ガソリンよりも安く済むかもしれない。
今現在はガソリン車やハイブリッド車よりも、随分高価価格設定となっている「水素自動車」だが、トヨタの「MIRAI」は、発売前の受注だけで予定台数を上回るほどの人気ぶりだった。
トヨタだけではなく、ホンダなども「水素自動車」の開発には、積極的だという印象がある。
もう一つのメリットは「水素自動車」だけを対象とはしていない、という点だろう。
「発電自動車燃料」ということは、日産や三菱の「EV車」も利用の対象となるのでは?
EV車の問題は、走行距離がガソリン車ほどではない、という点だった。
しかし、高速道路に点在するSAやPAを上手に利用するコトで、その問題の一部は解決する可能性がある。
もう一つ、この「下水汚泥」によるエネルギー利用というのは、地域を選ばないというメリットがあるのでは?と、考えている。
都市部のように人口が集中する地域でも、過疎化が進む地域でも「下水汚泥」そのものはある。
牧畜などが盛んな地域であれば、「下水汚泥」の対象は人ではなく家畜かもしれない。
水産加工などが盛んな地域であれば、その加工時に出る「下水汚泥」を利用することが可能になるかもしれない。
何より「エネルギーの多様化」が進めば、今月から始まった「電力自由化」をはじめとする「エネルギーの自由化」が進む可能性がある。
今の「電力自由化」は、百花繚乱のような参入ぶりだがそのエネルギー内容については、どこも似たり寄ったり。
利用者が「自然エネルギー割合の大きな電力会社を選ぼう」と思っても、選択肢などほとんどない。
あるのは「割引やポイント付加」くらいのものだろう。
違う見方をするなら「エネルギーの多様化」は、そのエネルギーを選ぶ生活者のライフスタイルと、大きく関係をしてくるようになる。
当然のことながら、提供をする側もまたこれまでのような「殿様商売」のような訳には行かない。
なぜなら、ほどんどの地域で「下水処理」そのものをやっているのは、自治体だからだ。
どちらも「殿様商売」になりそうな部分はあるが、自治体がエネルギービジネスを始めるというのは、大きな変化だろう。
以前から、「それぞれの地域にあったエネルギー政策」という指摘がされてきたが、それが本格的になるかもしれない。
それは、その地域に住む人とのライフスタイルと大きくかかわる、エネルギー政策だともいえるような気がする。
日清のカップヌードルのCMが、中止されることになった。
朝日新聞:矢口さんら出演のカップヌードルCM中止、日清謝罪文
CMそのものを見てはいないので、今となってはどのような内容であったのか、確認することができない。
ただ「不快に思う人が多くいた」という点を考えると、CMとしてはあまり出来が良くなかった、ということになるのだと思う。
Yahoo!のトピックスにも取り上げらたことで、ユーザーコメントがたくさん上がっているようだが、そのコメントを見ると、好感度の低いタレントさんを起用し、そのタレントさんが「自虐ネタ」で笑いを取ろうとしているのが不快、というコメントが目に付く。
一度ネガティブなイメージがついてしまうと、なかなか好感度を上げることは難しいとはいえ、ここまで低いとは思っていなかった、ということかもしれない。
ただ、CMというのはタレントさんのイメージだけに、左右されるモノではない。
実際、日清側は「ある程度、予想はしていたが、これほど評判が悪いとは思っていなかった」という趣旨のことを話している。
ということは、ネガティブイメージのタレントさんを起用しても、乗り切れると判断をし、制作したということだろう。
しかし、起用したタレントさんが、人を傷つけた側であったという点で、「自虐ネタ」が、「自虐ネタ」では無くなってしまっていたのではないだろうか?
このCMそのものの制作意図と内容が、あっていなかったのでは?という気もしている。
というのも、このCMは「CRAZY MAKES the FUTURE.」というシリーズで、「若い人たちへエールを送る」という狙いがあったからだ。
「若い頃の失敗などは、気にせず前へ進め!」という、メッセージが本来であれば込められたCMであったはずなのだ。
この制作意図から思い浮かべるのは、スティーブジョブスの「Stay Hungury, stay foolish.」という言葉だ。
日本語では「貪欲であれ。馬鹿であれ」と、訳されることが多いのだが、この時の「foolish」の意味は、表層的な「馬鹿」という意味ではないのでは?と、思っている。
「愚直」という意味かもしれないし、哲学者ソクラテスの言葉「無知の知」という意味かもしれない、と感じている。
とすれば、CM冒頭の「自分をさらけ出す」という、ビートたけしの言葉と、重なるように思うのだ。
「人生に失敗はつきもの」だからこそ、その経験を「失敗」ではない「学び」として前に進むことが大切、という趣旨であれば、もっと違った笑いとメッセージを伝えることができたのではないだろうか?
ダイレクトな表現だけが、人に伝わりやすいのではない。
CMというのは、映像と言葉、音楽が一つになって「メッセージを伝える」ことができるツールでもある。
日清をはじめとした関西の企業のCMは、「クスッと笑えるCM」を創るコトが、上手だった。
この「クスッと笑える」というのは「あんたも阿保やが、わても阿保や」という、部分があったからだろう。
それがないCMというのは、やはり「面白くないCM」だったのではないだろうか?
今日、名古屋市内の小学校では、入学式が行われたようだ。
小学校の入学式だけではなく、この時期は「ピカピカの一年生」が、たくさん誕生している。
新社会人にとって、研修の日々かもしれない。
その研修について、HUFFPOSTが興味深い記事を掲載している。
HUFFPOST:「皆さんの会社は採用ミス」新入社員に厳しい叱責、過酷な研修に波紋広がる
「採用ミス」という言葉は、新入社員には責任がないと思うのだが、社員研修というよりも何かとトラブルが多い「自己啓発セミナー」のような印象を受ける。
ただ、記事中にある「仕事をする目的」という部分では、考えさせられる点も多い。
最近の傾向だけではなく、以前から「仕事をする目的」が「収入を得るため」と回答をする、若い人たちが増えているような気がしている。
確かに、雇用そのものが不安定で、経済の格差が広がりつつある今のような社会状況では、正社員になれても「安定」とは言えない。
「仕事をする」という目的が、「収入を得るため」と回答してしまうのは、ある部分では「今の社会を映す言葉」なのかもしれない。
それでも、やはり「収入を得るため」の仕事では、やりがいがあり面白い!と感じる仕事と出会うことはできないだろう。
だからこそ、「働く目的」ということを改めて考えてほしいのだ。
先日、批評家の若松英輔さんの本を読む機会があった。
若松さんの著書の多くは「悲しみ」をテーマにしている内容が多いのだが、昨年、日経新聞夕刊に掲載されていたエッセイをまとめた本がある。
その中に「書けない履歴書」という、一文があった。
今時の新入社員は、「履歴書」ではなく「エントリーシート」なのかもしれないが、その「エントリーシート」に入力している内容は、表面的な「出来事」をまとめただけなのでは?
本当の自分を「エントリーシート」で伝えきれるものではない。
仕事はその「書ききれない(入力しきれず、また面接でも伝えきれない)自分の歩み」を成長させるものである、という趣旨のことを書いていらっしゃる(少なくとも、私はそう読んだ)。
ビジネスマンとして、様々な経験をしてきた側からすると「仕事は収入を得るだけ」では、とてもつまらない仕事しかやってこない。
これは若松さんだけではなく、ドラッカーもまた同じようなことを述べている。
人生の中で「仕事をする時間」というのは、決して短くはない。
であれば、「仕事=金儲け」ではない「働く目的」を見つけることが、自分らしい生き方となるはずだ。
だからこそ「自分と仕事」というテーマに、格闘しながら「仕事をする意味」を見つけてほしい、と思うのだ。
「アパレルの勝ち組」のように言われている、ユニクロの元気がないらしい。
中日新聞:ユニクロ値上げ後遺症、脱却遠く 3月客数減
今日、繁華街へ出かける用事があり、名古屋で一番の大型店舗のユニクロにも立ち寄ってみたのだが、週末・金曜日~週明け・月曜日までの「特別価格期間中」だと、言うのに確かにお客さんの数が少ない。
平日、しかも月曜日の昼~夕方という時間ではあったのだが、街中は春休み中の学生と思しき若者の姿を数多く見かけた。
近くにあるLOFTにも行ってみたのだが、LOFTは賑わっている。
どうやら、ユニクロには行かなくてもLOFTには行く、という若者が多かった、ということのようだ。
確かに、ユニクロとLOFTでは扱っている商品そのものが違うため、同じように見ることはできない。
ただ、人の流れとしてLOFTからユニクロへと人が流れていない、ということが気になったのだ。
もう一つ気になったことは、街中で頻繁に聞こえる「中国語」が、ユニクロ店内では聞かれないのだ。
中国人観光客にとって、ユニクロでの買い物が魅力の少ないモノなのか?と、思ってしまうほどだった。
というのも、「爆買い」が話題になった昨年あたりは、ユニクロの店内でも頻繁に「中国語」を聞いたからだ。
もしかしたら、ユニクロが考える客層と実際の客層のミスマッチが、起きているのでは?という気がするのだ。
ご存じのとおり、昨年秋ユニクロはルメールとのコラボ商品を出し、話題になった。
ルメールとのコラボは昨年秋・冬シーズンと今年の春・夏シーズンで、終了ということが決まっていることから、シーズン当初は人気が高かったようだが、オンシーズンになった今は「新価格」として、実質の値下げをしている。
値下げた価格を見ると、決して高いとは思わないのだが、シーズン当初に購入した人達から、フォロワーと呼ばれる「後追い」をする購入者がなかなか出ていないのでは?という気がしている。
SNSの「フォロワー」という意味ではなく、いわゆる「流行やブームに乗る人たち」のことだ。
フォロワーと呼ばれる人たちがいないと、流行やブームは起きてこない。
ファッションの先頭を走る一握りの人達だけの話題で終わってしまっては、ユニクロが今回コラボの相手として起用したルメールの効果はあまりなかった、ということになってしまう。
なぜなら、ユニクロがファストファッションだからだ。
ファストファッションである限り、その時々の流行に乗った商品を短期的に作り出していく必要がある。
いわば「消費するファッション」だからだ。
その「消費するファッション」に、ユニクロの主な客層であったファミリー層や若年層、そして「爆買い」の中国人観光客が、興味を示さなくなりつつあるのでは?ということなのだ。
先日、所用で出かけた帰りの地下鉄であるぶら下がり広告に、目が留まった。
広告の主は、京都府の京丹後市観光協会。
広告の内容は、「京都縦貫道が開通し、名古屋から京丹後へのアクセスが便利になりました!」という内容。
この内容だけなら、何も広告を積極的に打つほどなのだろうか?と、思ったのだった。
何より、京丹後市自体、名古屋の人にとってあまり馴染みがない地域。
そもそも京丹後市と言って、思い浮かぶのは「丹後ちりめん」などの主に着物に使われる絹織物か、ズワイガニの水揚げ地「間人(「たいざ」と読むようです)」程度。
「間人」で水揚げされるズワイガニは、高級品として関西方面で取引されるという話を、随分前に聞いたコトがあるので、たまたま知っていた・・・というのが、本当のところ。
アクセスという点を含めても、関西からの観光客を呼ぶほうが良いのでは?と、思ったのだ。
もちろん、「関西だけではなく東海地域からも観光客を呼びたい!」という気持ちはわかるのだが、そのような考えを持っているのは、何も京丹後市だけではないはずだ。
そこで調べてみると、何と!京丹後市の名古屋事務所が昨年開設されていたのだ。
東京だけではなく、名古屋にも他の自治体の「産業・観光振興事務所」は、いくつも開設されている。
東京などでは「物産館」と呼ばれ、地域の農産物などの物販が中心だが、名古屋の場合は「事務所」がほとんどで、地域の農産物の販売はあまりされていない。
しかし、京丹後市の場合「カフェ」までつくるほどの力の入りようなのだ。
その理由は、「ことば」らしい。
タレントのタモリさんが、名古屋弁を揶揄していた時期があったこともあってか?インパクトの強い名古屋弁を知っている方も多いだろう。
その一つが「どえりゃ~」という言葉ではないだろうか?
その「どえりゃ~」という言葉が、京丹後でも使われているという。
産経新聞:丹後、尾張弁「どえりゃー」似ている 京丹後市、共通性調査
言葉と文化などとは密接に関係している、と言われている。
「似ている言葉がある」ということは、文化的にも似ているところがある、と考えるのは自然だろう。
「似ている文化」があるのであれば、協力して地域振興もしやすいと考え、事務所やカフェの開設となったのだろう。
そして、振興策としての一番のポイントであった縦貫道などが開通したことで、昨年よりも積極的な広報となったのだろう。
考えてみれば、距離的には遠く離れているのに、言語が似ているという場合がある。
松本清張の「砂の器」などは、東北弁と出雲弁と似ていたことから、話がダイナミックに進行していく。
それとは逆に、「関西弁」といっても京都や神戸の方は「関西弁は、大阪弁のこと。一緒にしないで!」と、言われることが、ままとしてある。
確かに、関西と言っても京都・大阪・神戸とでは、それぞれ文化や街の雰囲気が全く違う。
そんな「言葉」をキーにした、地域連携振興策があっても面白い、と思ったのだった。
今週に入り、Yahoo!のトップに度々表示される広告の一つに「サントリー。クラフトセレクト」がある。
サントリー:CRAFT SELECT CM
昨年ごろから、ビールの市場が少しずつ変わり始めている。
以前は、発泡酒や第3のビールなど「ビール風味のアルコール飲料」が、人気となっていた。
それが、発泡酒人気にかげりが出始め、価格で選ぶなら第3のビール、という生活者の志向が顕著に表れ始めた。
もちろんメーカー側も手をこまねいているわけではなく、発泡酒に「健康」というキーワードを結びつけ、痛風の主な原因とされる「プリン体0」や「糖質0」を謳う商品などの開発をし、第3のビールとは違う「機能(というと変だが)」を持たせることで、新しい市場を創りだしていった。
そのような「ビール風味のアルコール飲料」人気とは別に、少しずつではあるがビールそのものの人気も復活しつつある。
復活の切っ掛けとなったのは、ご存じの「プレミアムビール」と呼ばれるビールだ。
元々は贈答市場で人気があった「プレミアムビール」だが、実際に飲んでみると「ビール風味のアルコール飲料」とは違う本格的な美味しさに、特別な日のビールとして人気が復活しつつある。
もう一つビール人気の復活に一役買ったのが「クラフトビール」と呼ばれる、ビールに果物などの風味が加わったビールだ。
「クラフトビール」に手が出しにくい大きな理由は、「自分好みのクラフトビールと出会う」ことの難しさだったような気がする。
実際、国内で販売される普通のビールでも、「キリンの苦味が好き」という方もいれば「アサヒのキレがあるおいしさが良い」という方もいるだろう。それぞれのメーカーやブランドによって、一言でビールと言っても好みがわかれる。
その好みがよりはっきりと分かれるビールが、「クラフトビール」だろう。
だからこそ「いろいろなクラフトビールを飲みながら、自分の好みを見つけたい」という人にとって、サントリーが仕掛ける「CRAFT SELECT〈クラフトセレクト〉」は、気軽に楽しめる「クラフトビールビギナー」向けの商品という気がする。
もちろん、本格的な「クラフトビール」を随分前から手掛け、ベルギービールのコンテストで最高位金メダルを受賞した、日本酒メーカー・小西酒造のビールもある。
10年ほど前の「価格重視」のビールから、「自分の飲みたいビール」へと変わりつつあるのが、今なのかもしれない。
名古屋の桜の名所の多くは、今週末が見ごろを迎えそうだ。
「美味しいビールを飲みながら、夜桜を楽しみたい!」という方も多いだろう。
ビール選びの新しい選択しとして「クラフトビール」が、当たり前になるかもしれない・・・と、感じさせるのだ。
「夜桜を楽しんだら、綺麗に片づけ飲酒運転をせずに帰宅するのは、夜桜見物のマナーの基本」ということだけは、忘れずに守りたい。