湖南地方には金勝山・阿星山・飯道山・龍王山・三上山・赤神山などの神山が並び、古来より独特の信仰の世界があったとされています。
そこには修験道や山岳信仰、神道・仏教が融合したような世界があり、天台密教の拡がりによって湖東地方や湖北地方にまでその影響は及んだようです。
「廃少菩提寺」は731年に良弁により創建された寺院と伝わり、「金勝寺」を大菩提寺とすることに対して少菩提寺と呼ばれていたといいます。
聖武天皇の時代以降は歴代天皇の勅願所となったといい、七堂伽藍と37坊を有する大寺院だったとされますが、織田信長の兵火により廃絶してしまったようです。
龍王山の麓にある山道の入口には「地蔵菩薩石仏」3躰が祀られ、かつての少菩提寺の史跡として残されています。
分かりにくい場所にあったため、公民館やコミュニティセンターに掲示されている案内板を見ながらたどり着いたのですが、地図を見て驚いたのは最近訪れている磨崖仏がさほど遠くはない地域に集中している事。
この地域一帯に如何に石の文化が根付いていたのかを再確認することになりました。
石造地蔵像の中尊は像高158cmで鎌倉初期の作とされており、両尊は南北朝期の作と案内板に書かれてあり、野ざらしにも関わらずそれほど劣化はしておらず、時代を越えてその姿が残されています。
3躰地蔵参から山へ向かうと“里山散策路”があり、「石造閻魔像」が祀られていますので、山へ向かって歩き出す。
すぐに閻魔像が祀られた場所への石段が見えてきましたが、石造の閻魔像というのは聞いたことがない。
“地蔵菩薩は子供を救い、閻魔大王は生前の罪を裁き修行させる”といいますが、実は地蔵菩薩の化身が閻魔であると日本ではされています。
この閻魔大王は別称「血噴き地蔵」という名があり、江戸時代に土砂流でうつ伏せに倒されていた石を石屋さんが、これはよい石だと思って割ったところ、帰ってから肩が痛くなって、石から血が流れている夢を見たという。
翌朝早く、石を見に行ってひっくり返してみたところ石像が彫ってあったという謂われがあるといいますから、江戸時代の作ということなのでしょうか。
石の高さは160cmで閻魔坐像は82cmだという。
上段には僧形と阿弥陀仏。下段には地蔵菩薩と僧形。
駒型の石が割れており、右側は別の石で修復されているといいますが、これが石を割った血噴き地蔵の逸話につながっているのかもしれません。
独特の姿を見せてくれるのは「石造多宝塔(重文)」。
塔高448cmの多宝塔には1241年の銘文があるとされ、鎌倉時代の石塔だといいます。
どことなく石塔寺の三重石塔を連想させるが、時代も形状も違うため関連はなさそうです。
多宝塔の下に石仏群が寄せ集められているが、これはかつて少菩提寺に祀られていたものが置かれているのでしょう。
近隣にある西応寺の「円満山少菩提寺古絵図」で検索すると、少菩提寺が山の上に向かって拡がっていた寺院だったことが分かり、現在はこの一角に遺物が集められているのかと思われます。
少菩提寺は戦国時代にはなくなってしまった寺院ですから、石仏はそれ以前に造られたものか、寺院焼失後に菩提を弔うために造られたものかは定かではありません。
いずれにしても土中に埋もれるより、多宝塔と共に祀られている方が良いのは間違いない。
ところで廃少菩提寺を歩いている間、“ミチオシエ(道教え)”として先導してくれたのはハンミョウです。
2cmもない小さな体で道案内をしてくれますが、その体の色彩は派手で美しく出会えると嬉しくなる昆虫です。
帰り道、目の前にそびえ立つのは近江富士こと三上山。
神山として、あるいは湖南のランドマークとしての三上山は、湖南市側から見ると富士山型ではなく竹生島型に見えます。
廃少菩提寺は土地勘がない当方にとっては実に分かりにくい場所にあり、駐車スペースも見つからない為、地元の方のお願いして自宅前に停めさせていただきました。
ただ、耳の遠い高齢の方にしか出会えず、どこまでコミュニケーションが取れたかはお互いに半々といった感じ。
“おばあちゃん!この辺りにある石の仏さんや閻魔さんの石仏はご存知ですか?”と言葉を何度も変えながら聞くと“仏はお寺さんや。”といった次第。その寺がどこか分らないのだけど...。
とはいえ、無事に到着することが出来ましたし、別のお爺さんには車を停めさせていただけましたので感謝です。
そこには修験道や山岳信仰、神道・仏教が融合したような世界があり、天台密教の拡がりによって湖東地方や湖北地方にまでその影響は及んだようです。
「廃少菩提寺」は731年に良弁により創建された寺院と伝わり、「金勝寺」を大菩提寺とすることに対して少菩提寺と呼ばれていたといいます。
聖武天皇の時代以降は歴代天皇の勅願所となったといい、七堂伽藍と37坊を有する大寺院だったとされますが、織田信長の兵火により廃絶してしまったようです。
龍王山の麓にある山道の入口には「地蔵菩薩石仏」3躰が祀られ、かつての少菩提寺の史跡として残されています。
分かりにくい場所にあったため、公民館やコミュニティセンターに掲示されている案内板を見ながらたどり着いたのですが、地図を見て驚いたのは最近訪れている磨崖仏がさほど遠くはない地域に集中している事。
この地域一帯に如何に石の文化が根付いていたのかを再確認することになりました。
石造地蔵像の中尊は像高158cmで鎌倉初期の作とされており、両尊は南北朝期の作と案内板に書かれてあり、野ざらしにも関わらずそれほど劣化はしておらず、時代を越えてその姿が残されています。
3躰地蔵参から山へ向かうと“里山散策路”があり、「石造閻魔像」が祀られていますので、山へ向かって歩き出す。
すぐに閻魔像が祀られた場所への石段が見えてきましたが、石造の閻魔像というのは聞いたことがない。
“地蔵菩薩は子供を救い、閻魔大王は生前の罪を裁き修行させる”といいますが、実は地蔵菩薩の化身が閻魔であると日本ではされています。
この閻魔大王は別称「血噴き地蔵」という名があり、江戸時代に土砂流でうつ伏せに倒されていた石を石屋さんが、これはよい石だと思って割ったところ、帰ってから肩が痛くなって、石から血が流れている夢を見たという。
翌朝早く、石を見に行ってひっくり返してみたところ石像が彫ってあったという謂われがあるといいますから、江戸時代の作ということなのでしょうか。
石の高さは160cmで閻魔坐像は82cmだという。
上段には僧形と阿弥陀仏。下段には地蔵菩薩と僧形。
駒型の石が割れており、右側は別の石で修復されているといいますが、これが石を割った血噴き地蔵の逸話につながっているのかもしれません。
独特の姿を見せてくれるのは「石造多宝塔(重文)」。
塔高448cmの多宝塔には1241年の銘文があるとされ、鎌倉時代の石塔だといいます。
どことなく石塔寺の三重石塔を連想させるが、時代も形状も違うため関連はなさそうです。
多宝塔の下に石仏群が寄せ集められているが、これはかつて少菩提寺に祀られていたものが置かれているのでしょう。
近隣にある西応寺の「円満山少菩提寺古絵図」で検索すると、少菩提寺が山の上に向かって拡がっていた寺院だったことが分かり、現在はこの一角に遺物が集められているのかと思われます。
少菩提寺は戦国時代にはなくなってしまった寺院ですから、石仏はそれ以前に造られたものか、寺院焼失後に菩提を弔うために造られたものかは定かではありません。
いずれにしても土中に埋もれるより、多宝塔と共に祀られている方が良いのは間違いない。
ところで廃少菩提寺を歩いている間、“ミチオシエ(道教え)”として先導してくれたのはハンミョウです。
2cmもない小さな体で道案内をしてくれますが、その体の色彩は派手で美しく出会えると嬉しくなる昆虫です。
帰り道、目の前にそびえ立つのは近江富士こと三上山。
神山として、あるいは湖南のランドマークとしての三上山は、湖南市側から見ると富士山型ではなく竹生島型に見えます。
廃少菩提寺は土地勘がない当方にとっては実に分かりにくい場所にあり、駐車スペースも見つからない為、地元の方のお願いして自宅前に停めさせていただきました。
ただ、耳の遠い高齢の方にしか出会えず、どこまでコミュニケーションが取れたかはお互いに半々といった感じ。
“おばあちゃん!この辺りにある石の仏さんや閻魔さんの石仏はご存知ですか?”と言葉を何度も変えながら聞くと“仏はお寺さんや。”といった次第。その寺がどこか分らないのだけど...。
とはいえ、無事に到着することが出来ましたし、別のお爺さんには車を停めさせていただけましたので感謝です。
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