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特に高月町から木之本町の辺りは「己高山仏教文化圏」といわれ、霊山 己高山の山岳信仰・白山信仰・奈良仏教が習合し、平安時代の比叡山天台宗の影響を受けながら独特の仏教文化が築かれた地とされます。
現在は無住となってしまった寺院が多いのですが、浄土真宗寺院の境内に観音堂があったり、村人によって守られてきた観音堂があったりして、観音様は守り続けられてきました。
「観音の里ふるさとまつり」では多くの観音様が拝観出来ますが、どの寺院にも村人たちが集まって拝観者のお世話・お茶のサービスなど忙しい一日を迎えられておられました。
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磯野寺は神仏習合が色濃く残り、まず赤見神社の鳥居から境内に入ることになります。
山号も赤見山ですから、神仏習合時代は赤見神社の神宮寺だったと考えられ、同じ境内にお宮さんと観音堂が隣接していました。
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寺院の縁起は、推古天皇8年(600年)赤見の境内に霊水湧き出し、それを知った厩戸皇子(聖徳太子)が訪れて池の側にあった桂の木で観音像を彫刻し、一宇を建立して「赤見山磯野寺」と号したとされています。
しかし、土地の土豪・磯野氏と小谷城の浅井家との戦で堂宇は焼失してしまい、現在のお堂は1833年の再建だそうです。
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観音堂に祀られている「十一面観音立像」は像高約63cm、室町時代から江戸時代に製作されたものと推定されています。
上半身は金泥(金を粉末状にして膠水で溶かした絵具)で仕上げられていて柔らかい肌の印象を受けます。
世話方の話によると“初代は戦で燃えてしまったので、この仏像は秀吉や家康の時代に作り直したものです。時代的に新しいので文化財指定は受けられないのですよ。”と少し残念そうに説明されます。
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厨子は中々立派なものでしたが、堂内は撮影禁止ですので外から撮った写真のみです。
金箔の貼られた厨子の中に金色の十一面観音が見えます。
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にぎやかな装飾をまとった姿に表情は温和な十一面観音です。
頭上の左三面の瞋面(しんめん)は憤怒の表情ですが、見方によっては笑っているようにも見えますね。
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“境内に「三光の松」がありますよ。”と紹介されて見に行きましたが、この松は面白いですね。
いわゆる「三鈷の松」は3本の葉っぱを持つ松で、有名な松でもたまに三葉の葉がある感じなのですが、この松は落ちている葉は見た限りでは全て三葉でした。
小雨が降る中で地面に落ちた葉っぱ探しをしているのは少し大人気なかったかもしれませんね。
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かつて磯野の村を貫いて余呉川が流れ、川の氾濫による水害の多い湿地のような場所だったとされます。
余呉川周辺の集落では氾濫による被害が多かった土地だったようですが、1845年に僧・西野恵荘が琵琶湖への水路(220mの手掘りのトンネル)を掘削し、水害はおさまったとされます。
この水路を西野水道と言い、“100年に一度しか水が浸かないようになった。”と世話方の説明がありました。
地域で代々語り継がれてきた話には、地域全体を救ってくれた西野上人への感謝の念が現在に至るまでの伝えられてきていることがひしひしと感じられます。
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