旧浅井町の大門村にある「神道山 大聖寺」の不動堂には「不動明王座像(平安時代後期)」が祀られており、24日に一日だけ・時間限定の特別公開をされました。
不動明王座像は、経年による痛みが激しく、不動堂での公開や博物館での企画展などを通した支援を受けて修理が進められていて、今回が修理前の最後の公開になるようです。
大聖寺は修験道の祖・役小角の創建したという下草野五山の一つとされていたといい、室町時代には48坊を有する天台宗の大寺院だったといいます。
しかし、1572年の織田信長による比叡山攻め、一向宗攻めと時期を同じくして焼き討ちに遭い、その後寺院は衰退していったようです。
江戸時代には不動堂のみが存続して、真言宗豊山派の信徒によって密かに守られ、現在は4軒の世話方によって守られているという。
大聖寺のある大門町は、金糞岳(鳥越林道)へと続く草野川沿いの道路近くにあり、草野川に近い田園部から山に突き当たるような奥まった場所にある山麓の集落です。
集落の入口にある臨時駐車場に車を停めて坂道を500mほど歩いて行くと、山に面した最奥の場所に大聖寺があり、設けられた獣除けの柵から内側は別空間となっています。
参道の終点には「大聖寺 不動堂(本堂)」と「神宮寺である若宮神社(旧観音堂)」があり、地元の世話方の方々が受付や説明などをされています。
大聖寺に向かう道すがらも地元の方に“ようお参り!”と声を掛けられ、地元の方のもてなしの気持ちを嬉しく思いながらの参拝です。
今回は「不動明王座像」など仏像の他に仏画13点が公開されており、不動堂の中は仏像・仏画が隙間なく祀られています。
大聖寺の全ての寺宝が堂の厨子・東西の壁面に祀られるのは年に一度の「大般若法会」の時だけということで堂内は仏の密な仏空間となっていました。
右の厨子には「役小角と前鬼・後鬼像」が祀られており、左の厨子には「釈迦十六善神図(1402年)」の仏画が祀られています。
「釈迦十六善神図」には、お釈迦様を中心に文殊・普賢の釈迦三尊と十六善神、下方には深沙大将と玄奘三蔵の姿が描かれているという。
壁面に6枚づつ吊るされた計12枚の仏画も室町期の画が中心で、3枚だけが江戸期の画でした。
「不動明王座像」は像高135cm、幅108cm、奥行き63cmとされ、滋賀県では2番目の大きさの像だといいます。(最大は「比叡山東門院守山寺」?)
キリリとした眉が長く険しく、目鼻がくっきりとしていて目の間の瘤が際立っていて、憤怒の表情を際立たせています。
堂外に展示してあったパネルからは足や台座を含む全体像が見て取れます。
仏像は美術館などで見ると全方位からの姿が見られる利点があるとはいえ、本来の御堂で厨子に納められた姿を拝むと場の空気感が分かりありがたみがありますね。
不動堂の厨子の様子は、堂の外に出てから撮らせていただきました。
境内では世話方の方に、かつての寺坊の領域や大門町の名の残る大門に関して、湖北における天台宗や伊吹山修験道・白山信仰などとのつながりなど、大聖寺についての話を聞かせて頂くことができました。
不動堂の横の「若宮神社」は、若宮神社は大聖寺48坊の寺坊を守る神宮寺だったようで、後述の配置図には旧観音堂と記されています。
下は「大聖寺院坊配置図」のパネルを撮った写真と現在の大聖寺の参道の写真ですが、山が迫っている窪みのような場所に寺院や境内があったことが分かります。
今も寺院の前は空き地となっており、大門跡の手前辺りから民家が立ち並んでいるという姿が残されていて、信長の兵火から450年たった今もかつての大聖寺の姿が垣間見えます。
大門集落を散策しているといつの時代の物か分かりませんが、石仏群が祀られています。
かなり手の込んだ石仏もありますから、かつての天台寺院・大聖寺の寺坊に祀られていた石仏かもしれませんね。
不動明王座像は、経年による痛みが激しく、不動堂での公開や博物館での企画展などを通した支援を受けて修理が進められていて、今回が修理前の最後の公開になるようです。
大聖寺は修験道の祖・役小角の創建したという下草野五山の一つとされていたといい、室町時代には48坊を有する天台宗の大寺院だったといいます。
しかし、1572年の織田信長による比叡山攻め、一向宗攻めと時期を同じくして焼き討ちに遭い、その後寺院は衰退していったようです。
江戸時代には不動堂のみが存続して、真言宗豊山派の信徒によって密かに守られ、現在は4軒の世話方によって守られているという。
大聖寺のある大門町は、金糞岳(鳥越林道)へと続く草野川沿いの道路近くにあり、草野川に近い田園部から山に突き当たるような奥まった場所にある山麓の集落です。
集落の入口にある臨時駐車場に車を停めて坂道を500mほど歩いて行くと、山に面した最奥の場所に大聖寺があり、設けられた獣除けの柵から内側は別空間となっています。
参道の終点には「大聖寺 不動堂(本堂)」と「神宮寺である若宮神社(旧観音堂)」があり、地元の世話方の方々が受付や説明などをされています。
大聖寺に向かう道すがらも地元の方に“ようお参り!”と声を掛けられ、地元の方のもてなしの気持ちを嬉しく思いながらの参拝です。
今回は「不動明王座像」など仏像の他に仏画13点が公開されており、不動堂の中は仏像・仏画が隙間なく祀られています。
大聖寺の全ての寺宝が堂の厨子・東西の壁面に祀られるのは年に一度の「大般若法会」の時だけということで堂内は仏の密な仏空間となっていました。
右の厨子には「役小角と前鬼・後鬼像」が祀られており、左の厨子には「釈迦十六善神図(1402年)」の仏画が祀られています。
「釈迦十六善神図」には、お釈迦様を中心に文殊・普賢の釈迦三尊と十六善神、下方には深沙大将と玄奘三蔵の姿が描かれているという。
壁面に6枚づつ吊るされた計12枚の仏画も室町期の画が中心で、3枚だけが江戸期の画でした。
「不動明王座像」は像高135cm、幅108cm、奥行き63cmとされ、滋賀県では2番目の大きさの像だといいます。(最大は「比叡山東門院守山寺」?)
キリリとした眉が長く険しく、目鼻がくっきりとしていて目の間の瘤が際立っていて、憤怒の表情を際立たせています。
堂外に展示してあったパネルからは足や台座を含む全体像が見て取れます。
仏像は美術館などで見ると全方位からの姿が見られる利点があるとはいえ、本来の御堂で厨子に納められた姿を拝むと場の空気感が分かりありがたみがありますね。
不動堂の厨子の様子は、堂の外に出てから撮らせていただきました。
境内では世話方の方に、かつての寺坊の領域や大門町の名の残る大門に関して、湖北における天台宗や伊吹山修験道・白山信仰などとのつながりなど、大聖寺についての話を聞かせて頂くことができました。
不動堂の横の「若宮神社」は、若宮神社は大聖寺48坊の寺坊を守る神宮寺だったようで、後述の配置図には旧観音堂と記されています。
下は「大聖寺院坊配置図」のパネルを撮った写真と現在の大聖寺の参道の写真ですが、山が迫っている窪みのような場所に寺院や境内があったことが分かります。
今も寺院の前は空き地となっており、大門跡の手前辺りから民家が立ち並んでいるという姿が残されていて、信長の兵火から450年たった今もかつての大聖寺の姿が垣間見えます。
大門集落を散策しているといつの時代の物か分かりませんが、石仏群が祀られています。
かなり手の込んだ石仏もありますから、かつての天台寺院・大聖寺の寺坊に祀られていた石仏かもしれませんね。
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