安土城は“天下布武”を目指した織田信長が1576年、丹羽長秀を総普請奉行に据えて築城を開始し、3年後の1579年には日本初の天守閣が完成して信長は移り住んだという。
しかし天正10年(1582年)明智光秀の謀反により信長は本能寺で自刃、本丸は焼失したがその経緯には諸説あるという。
二の丸が残っていた安土城はその後も機能したものの、豊臣秀次の八幡山城築城により廃城となって荒れてしまいます。
昭和から平成以降は特別史跡として調査・整備がされて復元された結果、整備された城跡となって大勢の人が訪れる観光地になっています。
安土城では現地VR(バーチャル・リアリティ)での安土城が再現されており、リアルとバーチャルの両方で見る安土城が体験できます。
アプリ「ストリートミュージアム」では、設定されたポイントに行くと在りし日の史跡の姿がスマホ画面に360°の視野で映し出され、解説まで語られるという優れもの。
安土山の下からは「大手門」が映し出され、右の山上に「天守閣」、左の山上に「三重塔」が見える。
大手門跡から入ると広い「厩跡」があり、その先には「大手道」の石段が続いていき、石段の途中には左に「伝 前田利家邸跡」右には上下2段の郭の「伝 羽柴秀吉邸跡」の遺構がある。
少し登った所の左側には「摠見寺」の仮本堂があり、ここは元は「伝 徳川家康邸跡」とされており、このメンバーに対する信長の信頼の厚さが伺われます。
この場所をVRで見ると全く違ったイメージに変わります。
こんなに真っすぐで広い大手道が防御に役立つのかと思いますが、信長は防御のための城というよりも規格外の城郭を築城して権力の象徴とする意味合いがあったともいいます。
「伝 徳川家康邸跡」に建てられたという「摠見寺仮本堂」は、1854年に火災によって焼失した「摠見寺」の仮本堂となっています。
「遠景山 摠見寺」は安土城築城に伴って城郭内に建立された臨済宗妙心寺派の寺院で、この地には昭和7年に再建されたものだという。
現在も三重塔の近くに「摠見寺跡」は残るが、今は石碑と敷石が残るのみとなっている。
信長は「比叡山延暦寺の焼き討ち」「石山本願寺との戦い」などで宗教勢力と敵対していたとされますが、当時は宗教勢力といっても好戦的な戦力だったという理由があります。
信長は安土城内に自分の菩提寺である「摠見寺」を建立していますので無宗教ではなかったと言えますが、大手道の石段に石仏を「転用石」として多数使用しているあたりをどう解釈するか。
石段の上から「大手門跡」を振り返ると、広大な田園地帯が見えます。
安土城が築城された頃は、西側に琵琶湖の内湖が広がっていて、湖上交通の拠点としての利点があったといいますが、戦前・戦中の干拓で広大な内湖は西の湖を残して農地となる。
安土城から京都までは舟で半日程度とされており、坂本城に明智光秀・佐和山城に丹羽長秀・長浜城に羽柴秀吉などの重臣を配置し、城下は楽市楽座で栄える。
陸路も東海道や中山道、北陸道が交わり、まさに「近江を制するものは天下を制す」の時代があったといえます。
「摠見寺」の本堂には御本尊「十一面觀世音菩薩立像(室町期)」と開山「円鑑禅師座像」と「織田信長座像」が祀られています。
堂内を一回り参拝をした後、茶室で“和菓子と抹茶”を頂くことにします。
襖絵を見ながら寺院内を進んで行った時、目に留まったのは「湖南妖怪絵」という水墨画です。
作者は山本燈舟という1928年生まれの方で、摠見寺の執事も勤められておられたようですが、数年前に亡くなられたとのこと。
本格的な水墨画の襖絵や戦国武将を漫画チックに描いた絵もありましたが、数点あった妖怪絵は興味深く感じる絵でした。
安土城の中枢部への入り口にあたる場所には「黒金門跡」があり、ここから先は信長が側近たちと過ごす日常生活の場となります。
「黒金門跡」の手前には「織田信澄邸(信長の甥で妻は光秀の娘)」や「森蘭丸邸(信長の近習)」跡などがあり、側近が守りを固めていたようです。
角を曲がれば黒金門を経て、天守閣のある本丸や二の丸・三の丸等の郭のある領域です。
招かれた人は黒門を抜けて聳える天守閣を目の前にした時、かつて感じた事のないような驚きを隠し切れなかったことでしょう。
その本丸は今は樹が生え放題の石垣が残るのみで、かつての面影は見えない。
信長は時の正親町天皇に経済的支援をする見返りに、信長の敵対勢力に対して講和の勅命を出すなどウィンウィンの関係だったとされ、天皇の行幸を待ち望んでいたという。
しかし、二度にわたって計画した安土城への天皇行幸は叶わず、本能寺の変をむかえてしまいます。
本丸では天守閣は見上げるように目の前に聳えるが、VRとはいえこの角度がリアルなのが面白いですね。
また天守閣は周囲の建物と渡り廊下でつながっていたようでもあります。
「本丸跡」まで登ると、残っているのは礎石のみ。
この上に信長は夢を実現したのかと想像を膨らませてみます。
VRの世界では天守閣は存在し、豪奢な装飾で飾り立てられた「御光の御間」からは目前に迫る内湖の様子が伺えます。
リアルな世界とバーチャルな世界を行き来しながらの見学になりましたが、現地ではスマホを見ながらグルグル回っている不思議な人だったかもしれません。
角度を西側に変えると「三重塔」や「摠見寺」のある山が見え、麓には楽市楽座で栄える安土の町並が見える。
もう無くなってしまった外堀もあり、豊かな田園地帯の広がるこの地の豊かさが分かります。
「二の丸跡」から眺めたリアル世界の風景です。
麓に見えるのは西の湖でしょうか。奥には琵琶湖を挟んで湖西の山々まで見えます。
「摠見寺跡」の下方には重要文化財の「三重塔」があり、室町期に建造というこの塔は湖南市の長寿寺から信長が移建したものだという。
リアル世界の三重塔は木色の塔であるが、バーチャル世界の三重塔は朱色の鮮やかな塔であり、移建された1575年当時はこんな塔だったのだろうとなる。
「二王門(楼門)」も元は1571年に甲賀地方で建立されたものとされ、天正年間に信長が移したものとされている。
門内には「金剛力士像(1467年の銘)」が祀られており、楼門・金剛力士像ともに重要文化財に指定を受けています。
大手道への帰り道にスギの皮が剥がされて、幹が赤くなっている植林群を見かけました。
杉皮葺きの材料にされるのかと思いましたが、この赤い幹が並ぶ姿は不思議な光景でした。
リアルとバーチャルで「安土城跡」を巡りましたが、石垣や礎石だけが残る城跡がVRを併用して巡るとかつてはこんな姿だったんだという発見と面白さがあります。
ストリートミュージアムはもう存在しないものが見える楽しさだけでなく、場所ごとの解説のナレーションが入るのがいいですね。
しかし天正10年(1582年)明智光秀の謀反により信長は本能寺で自刃、本丸は焼失したがその経緯には諸説あるという。
二の丸が残っていた安土城はその後も機能したものの、豊臣秀次の八幡山城築城により廃城となって荒れてしまいます。
昭和から平成以降は特別史跡として調査・整備がされて復元された結果、整備された城跡となって大勢の人が訪れる観光地になっています。
安土城では現地VR(バーチャル・リアリティ)での安土城が再現されており、リアルとバーチャルの両方で見る安土城が体験できます。
アプリ「ストリートミュージアム」では、設定されたポイントに行くと在りし日の史跡の姿がスマホ画面に360°の視野で映し出され、解説まで語られるという優れもの。
安土山の下からは「大手門」が映し出され、右の山上に「天守閣」、左の山上に「三重塔」が見える。
大手門跡から入ると広い「厩跡」があり、その先には「大手道」の石段が続いていき、石段の途中には左に「伝 前田利家邸跡」右には上下2段の郭の「伝 羽柴秀吉邸跡」の遺構がある。
少し登った所の左側には「摠見寺」の仮本堂があり、ここは元は「伝 徳川家康邸跡」とされており、このメンバーに対する信長の信頼の厚さが伺われます。
この場所をVRで見ると全く違ったイメージに変わります。
こんなに真っすぐで広い大手道が防御に役立つのかと思いますが、信長は防御のための城というよりも規格外の城郭を築城して権力の象徴とする意味合いがあったともいいます。
「伝 徳川家康邸跡」に建てられたという「摠見寺仮本堂」は、1854年に火災によって焼失した「摠見寺」の仮本堂となっています。
「遠景山 摠見寺」は安土城築城に伴って城郭内に建立された臨済宗妙心寺派の寺院で、この地には昭和7年に再建されたものだという。
現在も三重塔の近くに「摠見寺跡」は残るが、今は石碑と敷石が残るのみとなっている。
信長は「比叡山延暦寺の焼き討ち」「石山本願寺との戦い」などで宗教勢力と敵対していたとされますが、当時は宗教勢力といっても好戦的な戦力だったという理由があります。
信長は安土城内に自分の菩提寺である「摠見寺」を建立していますので無宗教ではなかったと言えますが、大手道の石段に石仏を「転用石」として多数使用しているあたりをどう解釈するか。
石段の上から「大手門跡」を振り返ると、広大な田園地帯が見えます。
安土城が築城された頃は、西側に琵琶湖の内湖が広がっていて、湖上交通の拠点としての利点があったといいますが、戦前・戦中の干拓で広大な内湖は西の湖を残して農地となる。
安土城から京都までは舟で半日程度とされており、坂本城に明智光秀・佐和山城に丹羽長秀・長浜城に羽柴秀吉などの重臣を配置し、城下は楽市楽座で栄える。
陸路も東海道や中山道、北陸道が交わり、まさに「近江を制するものは天下を制す」の時代があったといえます。
「摠見寺」の本堂には御本尊「十一面觀世音菩薩立像(室町期)」と開山「円鑑禅師座像」と「織田信長座像」が祀られています。
堂内を一回り参拝をした後、茶室で“和菓子と抹茶”を頂くことにします。
襖絵を見ながら寺院内を進んで行った時、目に留まったのは「湖南妖怪絵」という水墨画です。
作者は山本燈舟という1928年生まれの方で、摠見寺の執事も勤められておられたようですが、数年前に亡くなられたとのこと。
本格的な水墨画の襖絵や戦国武将を漫画チックに描いた絵もありましたが、数点あった妖怪絵は興味深く感じる絵でした。
安土城の中枢部への入り口にあたる場所には「黒金門跡」があり、ここから先は信長が側近たちと過ごす日常生活の場となります。
「黒金門跡」の手前には「織田信澄邸(信長の甥で妻は光秀の娘)」や「森蘭丸邸(信長の近習)」跡などがあり、側近が守りを固めていたようです。
角を曲がれば黒金門を経て、天守閣のある本丸や二の丸・三の丸等の郭のある領域です。
招かれた人は黒門を抜けて聳える天守閣を目の前にした時、かつて感じた事のないような驚きを隠し切れなかったことでしょう。
その本丸は今は樹が生え放題の石垣が残るのみで、かつての面影は見えない。
信長は時の正親町天皇に経済的支援をする見返りに、信長の敵対勢力に対して講和の勅命を出すなどウィンウィンの関係だったとされ、天皇の行幸を待ち望んでいたという。
しかし、二度にわたって計画した安土城への天皇行幸は叶わず、本能寺の変をむかえてしまいます。
本丸では天守閣は見上げるように目の前に聳えるが、VRとはいえこの角度がリアルなのが面白いですね。
また天守閣は周囲の建物と渡り廊下でつながっていたようでもあります。
「本丸跡」まで登ると、残っているのは礎石のみ。
この上に信長は夢を実現したのかと想像を膨らませてみます。
VRの世界では天守閣は存在し、豪奢な装飾で飾り立てられた「御光の御間」からは目前に迫る内湖の様子が伺えます。
リアルな世界とバーチャルな世界を行き来しながらの見学になりましたが、現地ではスマホを見ながらグルグル回っている不思議な人だったかもしれません。
角度を西側に変えると「三重塔」や「摠見寺」のある山が見え、麓には楽市楽座で栄える安土の町並が見える。
もう無くなってしまった外堀もあり、豊かな田園地帯の広がるこの地の豊かさが分かります。
「二の丸跡」から眺めたリアル世界の風景です。
麓に見えるのは西の湖でしょうか。奥には琵琶湖を挟んで湖西の山々まで見えます。
「摠見寺跡」の下方には重要文化財の「三重塔」があり、室町期に建造というこの塔は湖南市の長寿寺から信長が移建したものだという。
リアル世界の三重塔は木色の塔であるが、バーチャル世界の三重塔は朱色の鮮やかな塔であり、移建された1575年当時はこんな塔だったのだろうとなる。
「二王門(楼門)」も元は1571年に甲賀地方で建立されたものとされ、天正年間に信長が移したものとされている。
門内には「金剛力士像(1467年の銘)」が祀られており、楼門・金剛力士像ともに重要文化財に指定を受けています。
大手道への帰り道にスギの皮が剥がされて、幹が赤くなっている植林群を見かけました。
杉皮葺きの材料にされるのかと思いましたが、この赤い幹が並ぶ姿は不思議な光景でした。
リアルとバーチャルで「安土城跡」を巡りましたが、石垣や礎石だけが残る城跡がVRを併用して巡るとかつてはこんな姿だったんだという発見と面白さがあります。
ストリートミュージアムはもう存在しないものが見える楽しさだけでなく、場所ごとの解説のナレーションが入るのがいいですね。
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