このところ県境の最奥の集落をぶらぶらと巡っており、木之本町最奥集落「金居原」まで行って、折り返し杉野地区を巡ってきました。
「金居原」集落というと秘境の集落のようなイメージがありますが、実際は国道303号線が通っていることから、県内や岐阜県揖斐川町坂内へ容易に行き来の出来る普通の山村でした。
現在のような国道が開通する前から八草峠(750m)を越えて美濃とつながっていてはいたといいますが、豪雪地帯でもあり、おそらく明治末期までは林業や炭焼きを生業にしていた人が住んでいたのでしょう。
しかし、明治末期を境に「土倉鉱山」が操業を始め、地元・金居原の人や東北・四国・九州などから集まった坑夫が銅・硫化鉄・少量の金・銀・微量の 鉛を採掘して集落は大いににぎわったとされます。
「土倉鉱山」は、太平洋戦争の頃には従業員500名が軍事に必要な銅の大増産に従事していたといい、最盛期には従業員366人およびその家族約1000人が暮らしていたといいます。
鉱山近くには坑夫社宅が軒を連ねて、銭湯や映画館・マーケットなどが建ち並び、冬の積雪量が多いために山麓の小学校まで通えない子供のための「分教場」もあったそうです。
昭和40年に閉山された後、集落(土倉村と堀近村)は廃村となってしまい、大半は山と同化してその痕跡をわずかに残すのみだとされます。
国道から逸れて林道を進むと見えてくるのは「土倉鉱山跡」です。
廃墟としか表現のしようがありませんが、スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」に登場する廃墟に似ていることから、「滋賀のラピュタ」と呼ばれてアニメファンの人気を集めていて、コスプレで訪れる若者も多いとか。
「土倉鉱山跡」は老朽化にともない立入禁止とされていて、選鉱所の前までしか行けませんが、内部は7階の構造になっていてアリの巣のように坑道が続いているといいます。
無理して入ったりすると事故は勿論の事、会いたくないような生き物たちや、見てしまったことを後悔するようなものに出会ってしまうかもしれませんので入らないのが正解です。
たった50数年前まで稼働していた鉱山なのにもう廃墟というよりも遺跡のような姿になっているのには驚きますが、コンクリートの骨の部分だけが残っているので、神殿跡のような印象すら受けます。
僻地のような場所で早朝なのにも関わらず、他にも散策されている人が数名おられ、車のナンバーを見ると結構遠い所から来られているようですので、「土倉鉱山跡」に魅力を感じる人が多いことが伺われます。
選鉱所を横から見ると左側に土管があり、迷路のような通路と仮置き場のようなスペースがありました。
鉱山が操業していた頃はこの道を通って、選鉱所で働かれていたのでしょう。
「土倉鉱山跡」と現在呼ばれている廃墟は、正確には「第3選鉱場跡」といい、1942年から稼働した3代目にあたる選鉱場とされます。
採掘した岩石は建物の一番上に運ばれ、砕かれた後に沈殿分離槽で分離した銅鉱石を取り出して、残りを下の階の槽へ運んで分離・取り出し作業を繰り返したといいます。
ただ当時のことですから、環境面や安全面での配慮は充分ではなかったのでしょう、坑内事故やじん肺で亡くなられた方もおられ、鉱毒を含んだ水を杉野川に流していたことから、魚も棲まない川と呼ばれていたという。
時代は変わった今でも化学が発展した結果、人体や自然に大きな被害を及ぼす問題が数多く生じていますので、進歩はしても進化はないのかもしれません。
選鉱場から少し奥に進むと、坑道への入口がありました。
ここからトロッコで入っていくと縦の坑道があって、エレベーターで地下へ降りて横の坑道に入って採掘していたのだという。
中の様子を見たかったが、真っ暗な上に入口が水溜まりになっているため寄ることが躊躇われてここまで。
「土倉鉱山」の説明書きによると、ここから2キロ先の奥土倉には2代目の選鉱場が残っているとあります。
奥土倉の選鉱場が現在の場所に移されたのは、冬季の度重なる雪害によって人命を落とされることが多かったことや鉱山の設備拡充が出来なかったこととされています。
2代目の選鉱場跡があるなら行ってみようと思いましたが、道がひどすぎる。
この道を2キロも進む勇気はないし、車がボロボロになるのは困る。断念です。
「土倉鉱山」が繁栄していた頃、町の様子はどんな感じだったのでしょうね。
規模は全く違うと思いますが、映画『幸福の黄色いハンカチ』の島勇作(高倉健)と光枝(倍賞千恵子)のような人が生活していたと想像してみるのは面白い。
「金居原」集落というと秘境の集落のようなイメージがありますが、実際は国道303号線が通っていることから、県内や岐阜県揖斐川町坂内へ容易に行き来の出来る普通の山村でした。
現在のような国道が開通する前から八草峠(750m)を越えて美濃とつながっていてはいたといいますが、豪雪地帯でもあり、おそらく明治末期までは林業や炭焼きを生業にしていた人が住んでいたのでしょう。
しかし、明治末期を境に「土倉鉱山」が操業を始め、地元・金居原の人や東北・四国・九州などから集まった坑夫が銅・硫化鉄・少量の金・銀・微量の 鉛を採掘して集落は大いににぎわったとされます。
「土倉鉱山」は、太平洋戦争の頃には従業員500名が軍事に必要な銅の大増産に従事していたといい、最盛期には従業員366人およびその家族約1000人が暮らしていたといいます。
鉱山近くには坑夫社宅が軒を連ねて、銭湯や映画館・マーケットなどが建ち並び、冬の積雪量が多いために山麓の小学校まで通えない子供のための「分教場」もあったそうです。
昭和40年に閉山された後、集落(土倉村と堀近村)は廃村となってしまい、大半は山と同化してその痕跡をわずかに残すのみだとされます。
国道から逸れて林道を進むと見えてくるのは「土倉鉱山跡」です。
廃墟としか表現のしようがありませんが、スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」に登場する廃墟に似ていることから、「滋賀のラピュタ」と呼ばれてアニメファンの人気を集めていて、コスプレで訪れる若者も多いとか。
「土倉鉱山跡」は老朽化にともない立入禁止とされていて、選鉱所の前までしか行けませんが、内部は7階の構造になっていてアリの巣のように坑道が続いているといいます。
無理して入ったりすると事故は勿論の事、会いたくないような生き物たちや、見てしまったことを後悔するようなものに出会ってしまうかもしれませんので入らないのが正解です。
たった50数年前まで稼働していた鉱山なのにもう廃墟というよりも遺跡のような姿になっているのには驚きますが、コンクリートの骨の部分だけが残っているので、神殿跡のような印象すら受けます。
僻地のような場所で早朝なのにも関わらず、他にも散策されている人が数名おられ、車のナンバーを見ると結構遠い所から来られているようですので、「土倉鉱山跡」に魅力を感じる人が多いことが伺われます。
選鉱所を横から見ると左側に土管があり、迷路のような通路と仮置き場のようなスペースがありました。
鉱山が操業していた頃はこの道を通って、選鉱所で働かれていたのでしょう。
「土倉鉱山跡」と現在呼ばれている廃墟は、正確には「第3選鉱場跡」といい、1942年から稼働した3代目にあたる選鉱場とされます。
採掘した岩石は建物の一番上に運ばれ、砕かれた後に沈殿分離槽で分離した銅鉱石を取り出して、残りを下の階の槽へ運んで分離・取り出し作業を繰り返したといいます。
ただ当時のことですから、環境面や安全面での配慮は充分ではなかったのでしょう、坑内事故やじん肺で亡くなられた方もおられ、鉱毒を含んだ水を杉野川に流していたことから、魚も棲まない川と呼ばれていたという。
時代は変わった今でも化学が発展した結果、人体や自然に大きな被害を及ぼす問題が数多く生じていますので、進歩はしても進化はないのかもしれません。
選鉱場から少し奥に進むと、坑道への入口がありました。
ここからトロッコで入っていくと縦の坑道があって、エレベーターで地下へ降りて横の坑道に入って採掘していたのだという。
中の様子を見たかったが、真っ暗な上に入口が水溜まりになっているため寄ることが躊躇われてここまで。
「土倉鉱山」の説明書きによると、ここから2キロ先の奥土倉には2代目の選鉱場が残っているとあります。
奥土倉の選鉱場が現在の場所に移されたのは、冬季の度重なる雪害によって人命を落とされることが多かったことや鉱山の設備拡充が出来なかったこととされています。
2代目の選鉱場跡があるなら行ってみようと思いましたが、道がひどすぎる。
この道を2キロも進む勇気はないし、車がボロボロになるのは困る。断念です。
「土倉鉱山」が繁栄していた頃、町の様子はどんな感じだったのでしょうね。
規模は全く違うと思いますが、映画『幸福の黄色いハンカチ』の島勇作(高倉健)と光枝(倍賞千恵子)のような人が生活していたと想像してみるのは面白い。
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