滋賀県の湖北地方の米原市と長浜市には「上丹生」「下丹生」と同じ名前の集落があり、しかも集落を流れる川も「丹生川」と同じ名前の川が流れる。
奈良時代の貴族「息長丹生真人」氏は米原市丹生を本拠としていたといい、「丹生」は水銀や赤土のことを示しますから、丹生氏は金属の採鉱や精錬に詳しかった一族と考えられます。
長浜市余呉町の上丹生と下丹生にはそれぞれ「丹生神社」があり、共に丹生都比売命(丹生明神)を御祭神の一柱として祀り、社伝には丹生真人の縁起が残るという。
おそらくは丹生氏の一族が鉱脈を探して湖北を巡っていたのではと思われるのは興味深く、今度は米原市の上丹生集落を訪れました。
上丹生集落は霊仙山の麓にほど近く、上丹生より奥には霊仙山の榑ケ畑登山口があるというが、榑ケ畑集落は1957年頃に廃村になったといいます。
霊仙山の周辺には廃村になった村や無住の村が多いのですが、雪が多く交通が不便なのと石炭などの産業が廃れていったことの影響があったのでしょう。
対して上丹生集落は「木彫りの里」と呼ばれ、仏壇づくりや工芸品の製作が盛んな地で、道沿いを進むだけでも何軒もの仏壇屋さんが見受けられます。
上丹生の木彫りは、およそ300年前の江戸時代に木彫りの技が伝えられ、木地師・空殿師・彫刻師・塗師・蒔絵師・飾金具師・ 金箔押師の職人が上丹生の集落に集まっているといいます。
そんな上丹生の集落の入口辺りには名水「いぼとり水」の湧き水と「いぼとり地蔵」の祠が祀られていました。
「いぼとり水」は、丹生川のきれいな水に魅せられた旅人がその水を手にした所、手にできていたイボが取れたといいい、以来霊験あらたかな水として水をもらいに来る人が多くなったと伝わります。
また、息長丹生真人の一族に生まれたという平安時代の僧・法性院尊意(13世天台座主)の「初洗いの水」とも伝わり、尊意は菅原道真の仏教学の師とされているという。
「いぼとり地蔵」の祠の横には万葉集巻十四東歌の碑があります。
『真金吹く丹生の真朱の色に出て言はなくのみそ我が恋ふらくは』とあり、“鉄を作る時に用いる丹生の赤土のように顔には出ても言わないだけです。私があなたを恋しく思っている気持ちを...。”の意だという。
この歌が詠まれた地は多数あって、ここで詠まれた歌とは限らないが、上丹生の地でみるとしっくりくる感があります。
上丹生集落をさらに進んで行くと何とも奇妙な光景に出会います。
大きな岩に水を通す穴が設けられたこの場所は治山施設だという。人工で作られた物には見えませんが、不思議な迫力があります。
さて、上丹生集落の最も奥に「神明神社」はあり、神社は泰澄が開基した「霊山寺」の鎮守の社とされています。
「霊山寺」は本堂と18の小寺院、僧侶や神官が29人いたとし、山の周辺には7つの別院があったといいます。
「神明神社」の御祭神は天照皇大神。霊山の山麓の神社の厳粛さを感じる社です。
境内にはイチョウの樹があり、石垣の上には拝殿と本殿が横並びに建ちます。
燦燦とした光を注ぎ込む朝日に照らされた社は、太陽神とされる天照大神の光が連想されて非常に心地よい。
2段に組まれた石垣は、拝殿よりも本殿の方がさらに高く積まれており、より天に近い場所に御神体がある。
山麓の神社に参拝する機会が増えていますが、やはり山の神社からは独特の雰囲気を感じます。
「神明神社」には石田三成の父・正継に関する逸話があります。
光成が豊臣秀吉に仕えた際に正継は息子・三成を補佐し、1591年に三成が佐和山城主となると、正継は近江国で300石を食み、三成が留守の時は城代として所領を治めたといいます。
関ケ原の合戦では西軍として佐和山城の本丸を守り、西軍が敗退した後に押し寄せた東軍を相手に戦い、多くの家臣を脱出させ、正継の長男で三成の兄である正澄と共に自刃して果てたという。
その石田正継は、上丹生と隣村で境界争いが起った際、神明神社を修築して起請を納めて公平な判決を誓わしめたと伝えられています。
本殿のある高い石垣の下には巨樹スギが4本。
太いものだと4~5m少々はありそうで、3本は姿勢よく真っすぐに立ち、残る1本は幹が途中で分かれていて荒々しい印象があります。
拝殿や本殿のあるエリアの隅には苔むした石垣の前に灯籠があるのですが、この灯籠には奉納された鉢や賽銭箱が置かれ、注連縄まで張られています。
さほど古そうな灯籠には見えませんので、もしかしたらこの場所には祭場か何か信仰につながるものがあったのかもしれません。
「神明神社」の鳥居の前には、丹生川が流れており、川に架かる石橋を渡って参拝するのですが、川の上流から大きな水音がするので上流へ歩いてみる。
鈴鹿山系から流れ出る水が一段低いところに流れ落ちているのですが、水量の豊富さと透明度の高い水に見惚れてしまいます。
上丹生集落は、丹生川と宗谷川の合流地点に広がる集落ですので、次は宗谷川の上流にある醒井養鱒場方面へと向かってみます。
上丹生から醒井養鱒場へ向かう宗谷川と並行した道筋は、「醒井峡谷」と呼ばれる景勝地とされており、醒井峡谷の静かで深淵な峡谷を眺めながら宗谷川沿いに歩いてみます。
醒井養鱒場では霊仙山(1094m)山麓の鍾乳洞から湧き出る清水を使ってニジマスやアマゴ・イワナなどの清流でしか生息することが出来ない魚を養殖しているといいます。
宗谷川に放流もしているようで、下流の川沿いの家では庭から釣り糸を垂れておられる様子も見受けられ、ちょっと羨ましくも思いましたね。
奈良時代の貴族「息長丹生真人」氏は米原市丹生を本拠としていたといい、「丹生」は水銀や赤土のことを示しますから、丹生氏は金属の採鉱や精錬に詳しかった一族と考えられます。
長浜市余呉町の上丹生と下丹生にはそれぞれ「丹生神社」があり、共に丹生都比売命(丹生明神)を御祭神の一柱として祀り、社伝には丹生真人の縁起が残るという。
おそらくは丹生氏の一族が鉱脈を探して湖北を巡っていたのではと思われるのは興味深く、今度は米原市の上丹生集落を訪れました。
上丹生集落は霊仙山の麓にほど近く、上丹生より奥には霊仙山の榑ケ畑登山口があるというが、榑ケ畑集落は1957年頃に廃村になったといいます。
霊仙山の周辺には廃村になった村や無住の村が多いのですが、雪が多く交通が不便なのと石炭などの産業が廃れていったことの影響があったのでしょう。
対して上丹生集落は「木彫りの里」と呼ばれ、仏壇づくりや工芸品の製作が盛んな地で、道沿いを進むだけでも何軒もの仏壇屋さんが見受けられます。
上丹生の木彫りは、およそ300年前の江戸時代に木彫りの技が伝えられ、木地師・空殿師・彫刻師・塗師・蒔絵師・飾金具師・ 金箔押師の職人が上丹生の集落に集まっているといいます。
そんな上丹生の集落の入口辺りには名水「いぼとり水」の湧き水と「いぼとり地蔵」の祠が祀られていました。
「いぼとり水」は、丹生川のきれいな水に魅せられた旅人がその水を手にした所、手にできていたイボが取れたといいい、以来霊験あらたかな水として水をもらいに来る人が多くなったと伝わります。
また、息長丹生真人の一族に生まれたという平安時代の僧・法性院尊意(13世天台座主)の「初洗いの水」とも伝わり、尊意は菅原道真の仏教学の師とされているという。
「いぼとり地蔵」の祠の横には万葉集巻十四東歌の碑があります。
『真金吹く丹生の真朱の色に出て言はなくのみそ我が恋ふらくは』とあり、“鉄を作る時に用いる丹生の赤土のように顔には出ても言わないだけです。私があなたを恋しく思っている気持ちを...。”の意だという。
この歌が詠まれた地は多数あって、ここで詠まれた歌とは限らないが、上丹生の地でみるとしっくりくる感があります。
上丹生集落をさらに進んで行くと何とも奇妙な光景に出会います。
大きな岩に水を通す穴が設けられたこの場所は治山施設だという。人工で作られた物には見えませんが、不思議な迫力があります。
さて、上丹生集落の最も奥に「神明神社」はあり、神社は泰澄が開基した「霊山寺」の鎮守の社とされています。
「霊山寺」は本堂と18の小寺院、僧侶や神官が29人いたとし、山の周辺には7つの別院があったといいます。
「神明神社」の御祭神は天照皇大神。霊山の山麓の神社の厳粛さを感じる社です。
境内にはイチョウの樹があり、石垣の上には拝殿と本殿が横並びに建ちます。
燦燦とした光を注ぎ込む朝日に照らされた社は、太陽神とされる天照大神の光が連想されて非常に心地よい。
2段に組まれた石垣は、拝殿よりも本殿の方がさらに高く積まれており、より天に近い場所に御神体がある。
山麓の神社に参拝する機会が増えていますが、やはり山の神社からは独特の雰囲気を感じます。
「神明神社」には石田三成の父・正継に関する逸話があります。
光成が豊臣秀吉に仕えた際に正継は息子・三成を補佐し、1591年に三成が佐和山城主となると、正継は近江国で300石を食み、三成が留守の時は城代として所領を治めたといいます。
関ケ原の合戦では西軍として佐和山城の本丸を守り、西軍が敗退した後に押し寄せた東軍を相手に戦い、多くの家臣を脱出させ、正継の長男で三成の兄である正澄と共に自刃して果てたという。
その石田正継は、上丹生と隣村で境界争いが起った際、神明神社を修築して起請を納めて公平な判決を誓わしめたと伝えられています。
本殿のある高い石垣の下には巨樹スギが4本。
太いものだと4~5m少々はありそうで、3本は姿勢よく真っすぐに立ち、残る1本は幹が途中で分かれていて荒々しい印象があります。
拝殿や本殿のあるエリアの隅には苔むした石垣の前に灯籠があるのですが、この灯籠には奉納された鉢や賽銭箱が置かれ、注連縄まで張られています。
さほど古そうな灯籠には見えませんので、もしかしたらこの場所には祭場か何か信仰につながるものがあったのかもしれません。
「神明神社」の鳥居の前には、丹生川が流れており、川に架かる石橋を渡って参拝するのですが、川の上流から大きな水音がするので上流へ歩いてみる。
鈴鹿山系から流れ出る水が一段低いところに流れ落ちているのですが、水量の豊富さと透明度の高い水に見惚れてしまいます。
上丹生集落は、丹生川と宗谷川の合流地点に広がる集落ですので、次は宗谷川の上流にある醒井養鱒場方面へと向かってみます。
上丹生から醒井養鱒場へ向かう宗谷川と並行した道筋は、「醒井峡谷」と呼ばれる景勝地とされており、醒井峡谷の静かで深淵な峡谷を眺めながら宗谷川沿いに歩いてみます。
醒井養鱒場では霊仙山(1094m)山麓の鍾乳洞から湧き出る清水を使ってニジマスやアマゴ・イワナなどの清流でしか生息することが出来ない魚を養殖しているといいます。
宗谷川に放流もしているようで、下流の川沿いの家では庭から釣り糸を垂れておられる様子も見受けられ、ちょっと羨ましくも思いましたね。
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