毘沙門堂は昨年にも参拝しましたが、再びの参拝となった目的の一つは御朱印帳を入手するためでした。
毘沙門堂の御朱印帳はビロード地に金色の装飾がされている美しい御朱印帳で、触感も非常に気持ちの良いものです。
前回は黒色の御朱印帳を購入しましたが、他の寺院で御朱印を頂く時に朱印を書く方が興味深そうに撫でられていることが何度かあった御朱印帳でした。
いきなり御朱印帳の話からになってしまいましたが、毘沙門堂は京都山科区の山際の盆地にある寺院で門跡寺院としても格式のある落ち着きのある寺院です。
毘沙門堂は“天台宗五箇室門跡”の一つとされており、曼殊院門跡・三千院門跡・青蓮院門跡・妙法院門跡と並ぶ格式のある門跡寺院になります。
また宸殿の各間には狩野派の襖絵などを観ることができ、季節になると桜や紅葉の名所にもなる寺院といわれています。
毘沙門堂は703年、現在の上京区・御所の北方辺りに僧・行基により「護法山出雲寺」として開かれたとされます。
その後に戦乱等で荒廃してしまったようですが、1665年に現在地に再建。
復興(再建)にあたっては徳川家康の側近でもあった天海によって始まり、天海の死後には弟子の公海が遺志を継ぎ、再建に至ったようです。
その後、後西天皇の皇子公弁法親王が入寺して門跡寺院となったとされています。
急勾配の石段の横には“毘沙門天王”の真っ赤ののぼりが立ち、その先に朱色の仁王門がどっしりと構えています。
石段を「仁王門(山門)」に向かって登っていく時間がこの上なく好きなので、登っていくときには心が晴れ渡ります。
仁王門には阿吽の金剛力士像がおられますが、この仁王様は寺院再建時の1665年に建立されたものだそうです。
力感のある仁王像はややスラッとした感じがしており、金網越しとはいえ迫力は満点です。
参拝者が入門するのは「薬医門」からとなり、今度は短い石段を登ることになります。
門にしめ縄が掛けられていますが、寺の門にしめ縄をかけるのは神仏習合の名残なのでしょうか。
門跡門主晋山の大事以外は一切開門されないといわれる「勅使門(1693年移築)」の内側には大きな枝垂櫻の巨木があります。
樹齢100有年・高さ10m・枝張30mとされるシダレサクラが満開の時はさぞや壮観な姿なのだと思います。
勅使門の外側にはモミジが参道に垂れ下がるように密集しています。
この参道の紅葉は「そうだ、京都 いこう」のキャンペーンポスターにも使用されたそうです。
桜の後方にある玄関を横目に本殿で受け付けをすることになりますが、今回驚いたのは音声ガイドを渡されたことでしょうか。
前回はガイドの方が笑いも含めた絶妙のトークで案内してくださいましたが、夏の閑散期のためかシステムが変わっています。
今回は音声ガイドを持っての参拝でしたので、美術館以外では初めての経験を楽しみます。
本殿の須弥壇には左から岩窟を模した彫り物の中に祀られた「不動明王と2童子」と「如意輪観音坐像」、中央にはお前立ちの毘沙門天が3躰。
本尊の毘沙門天は宝塔の中に安置されているそうですが、こちらは絶対秘仏となっており拝観することは出来ません。
この絶対秘仏の御本尊は伝教大師・最澄のご自作で、延暦寺根本中堂の御本尊・薬師如来の余材で刻まれたものと伝えられているそうです。
最右には「東照大権現」が祀られており、徳川家康の側近だった天海とのつながりの深さが感じられます。
宸殿の縁側からは「晩翠園」と呼ばれる江戸初期の回遊式庭園をのぞむことが出来ます。
やはり京都の門跡寺院は庭園ということになりますね。
廊下を進んでいくと緑の奥に朱色の「高台弁財天」が見えてきます。
「高台弁財天」は秀吉の母の大政所が大阪城内で念じていた弁財天とされ、大阪城落城後は北政所が高台寺で祀られていたものを毘沙門堂境内に勧請されたようです。
高台弁財天へは本殿を出て境内を移動することになりますが、本殿へ戻った時に珍しいものを見ました。
「常香盤」という線香を四方を四角い渦巻きのような文様にして香を炊く仏具がありますが、その文様を造る光景です。
最初に中の杯を櫛で丁寧にかき混ぜ、文様の入った道具で型押しして、香をひいていくという工程です。
全て燃え尽きるまで24時間かかり、時計替わりになるそうですが、滅多に見れない貴重なものを拝見できました。
(常香盤のイメージ)
本殿・宸殿の横の道を歩いて行くと鳥居が見えてきます。
今の季節は緑が美しい場所ですが、秋には紅葉に埋もれそうな樹勢のある場所です。
抜け池に掛けられた橋を渡ると「弁天堂」があり参拝いたしますが、堂は開放されており、祀られている弁財天を間近に拝むことができます。
この弁天堂に祀られているのは岩山を模した造形の正面に「宇賀弁財天」。
岩山の下部の岩窟には「宇賀神」、周囲には眷属の「弁財十五童子」が周囲を固めております。
実に迫力のある宇賀弁財天ではありましたが、撮影は禁止。
「経蔵」には注意書きはありませんでしたので、「千手観音座像」を撮らせていただきました。
千手観音像の前には人仏像や念持仏や仏像らしきものが15躰ほどあり、いつの時代かに奉納されたものかと思われます。
最後に御朱印帳の話になりますが、前回は黒で今回はブルーの御朱印帳を選びました。
“表書きもお願いしたいのですが...”と聞いてみると、“何とお書きしましょうか?”と聞かれます。
“前回は仏教用ということでお任せしました。”と言うと“何て書いてあります?”
実は前回の文字は読めないままでしたので写真を見せると“「色即是空」ですね。”と教えていただくことに。
“では今回は書きたい言葉があるのでそれを書かせていただきます。”と書いていただいたのですが、これまた読めない。
「拈華微笑」の「拈華」かと推定しているのですが、“この言葉は悟りの言葉です。”と教えていただいた言葉です。
御朱印もそうですが、古文書などを博物館で見ても読み取れないのは情けないことです。
当方には大人の教養というものがないので、少しは勉強しないとダメですね。
毘沙門堂の御朱印帳はビロード地に金色の装飾がされている美しい御朱印帳で、触感も非常に気持ちの良いものです。
前回は黒色の御朱印帳を購入しましたが、他の寺院で御朱印を頂く時に朱印を書く方が興味深そうに撫でられていることが何度かあった御朱印帳でした。
いきなり御朱印帳の話からになってしまいましたが、毘沙門堂は京都山科区の山際の盆地にある寺院で門跡寺院としても格式のある落ち着きのある寺院です。
毘沙門堂は“天台宗五箇室門跡”の一つとされており、曼殊院門跡・三千院門跡・青蓮院門跡・妙法院門跡と並ぶ格式のある門跡寺院になります。
また宸殿の各間には狩野派の襖絵などを観ることができ、季節になると桜や紅葉の名所にもなる寺院といわれています。
毘沙門堂は703年、現在の上京区・御所の北方辺りに僧・行基により「護法山出雲寺」として開かれたとされます。
その後に戦乱等で荒廃してしまったようですが、1665年に現在地に再建。
復興(再建)にあたっては徳川家康の側近でもあった天海によって始まり、天海の死後には弟子の公海が遺志を継ぎ、再建に至ったようです。
その後、後西天皇の皇子公弁法親王が入寺して門跡寺院となったとされています。
急勾配の石段の横には“毘沙門天王”の真っ赤ののぼりが立ち、その先に朱色の仁王門がどっしりと構えています。
石段を「仁王門(山門)」に向かって登っていく時間がこの上なく好きなので、登っていくときには心が晴れ渡ります。
仁王門には阿吽の金剛力士像がおられますが、この仁王様は寺院再建時の1665年に建立されたものだそうです。
力感のある仁王像はややスラッとした感じがしており、金網越しとはいえ迫力は満点です。
参拝者が入門するのは「薬医門」からとなり、今度は短い石段を登ることになります。
門にしめ縄が掛けられていますが、寺の門にしめ縄をかけるのは神仏習合の名残なのでしょうか。
門跡門主晋山の大事以外は一切開門されないといわれる「勅使門(1693年移築)」の内側には大きな枝垂櫻の巨木があります。
樹齢100有年・高さ10m・枝張30mとされるシダレサクラが満開の時はさぞや壮観な姿なのだと思います。
勅使門の外側にはモミジが参道に垂れ下がるように密集しています。
この参道の紅葉は「そうだ、京都 いこう」のキャンペーンポスターにも使用されたそうです。
桜の後方にある玄関を横目に本殿で受け付けをすることになりますが、今回驚いたのは音声ガイドを渡されたことでしょうか。
前回はガイドの方が笑いも含めた絶妙のトークで案内してくださいましたが、夏の閑散期のためかシステムが変わっています。
今回は音声ガイドを持っての参拝でしたので、美術館以外では初めての経験を楽しみます。
本殿の須弥壇には左から岩窟を模した彫り物の中に祀られた「不動明王と2童子」と「如意輪観音坐像」、中央にはお前立ちの毘沙門天が3躰。
本尊の毘沙門天は宝塔の中に安置されているそうですが、こちらは絶対秘仏となっており拝観することは出来ません。
この絶対秘仏の御本尊は伝教大師・最澄のご自作で、延暦寺根本中堂の御本尊・薬師如来の余材で刻まれたものと伝えられているそうです。
最右には「東照大権現」が祀られており、徳川家康の側近だった天海とのつながりの深さが感じられます。
宸殿の縁側からは「晩翠園」と呼ばれる江戸初期の回遊式庭園をのぞむことが出来ます。
やはり京都の門跡寺院は庭園ということになりますね。
廊下を進んでいくと緑の奥に朱色の「高台弁財天」が見えてきます。
「高台弁財天」は秀吉の母の大政所が大阪城内で念じていた弁財天とされ、大阪城落城後は北政所が高台寺で祀られていたものを毘沙門堂境内に勧請されたようです。
高台弁財天へは本殿を出て境内を移動することになりますが、本殿へ戻った時に珍しいものを見ました。
「常香盤」という線香を四方を四角い渦巻きのような文様にして香を炊く仏具がありますが、その文様を造る光景です。
最初に中の杯を櫛で丁寧にかき混ぜ、文様の入った道具で型押しして、香をひいていくという工程です。
全て燃え尽きるまで24時間かかり、時計替わりになるそうですが、滅多に見れない貴重なものを拝見できました。
(常香盤のイメージ)
本殿・宸殿の横の道を歩いて行くと鳥居が見えてきます。
今の季節は緑が美しい場所ですが、秋には紅葉に埋もれそうな樹勢のある場所です。
抜け池に掛けられた橋を渡ると「弁天堂」があり参拝いたしますが、堂は開放されており、祀られている弁財天を間近に拝むことができます。
この弁天堂に祀られているのは岩山を模した造形の正面に「宇賀弁財天」。
岩山の下部の岩窟には「宇賀神」、周囲には眷属の「弁財十五童子」が周囲を固めております。
実に迫力のある宇賀弁財天ではありましたが、撮影は禁止。
「経蔵」には注意書きはありませんでしたので、「千手観音座像」を撮らせていただきました。
千手観音像の前には人仏像や念持仏や仏像らしきものが15躰ほどあり、いつの時代かに奉納されたものかと思われます。
最後に御朱印帳の話になりますが、前回は黒で今回はブルーの御朱印帳を選びました。
“表書きもお願いしたいのですが...”と聞いてみると、“何とお書きしましょうか?”と聞かれます。
“前回は仏教用ということでお任せしました。”と言うと“何て書いてあります?”
実は前回の文字は読めないままでしたので写真を見せると“「色即是空」ですね。”と教えていただくことに。
“では今回は書きたい言葉があるのでそれを書かせていただきます。”と書いていただいたのですが、これまた読めない。
「拈華微笑」の「拈華」かと推定しているのですが、“この言葉は悟りの言葉です。”と教えていただいた言葉です。
御朱印もそうですが、古文書などを博物館で見ても読み取れないのは情けないことです。
当方には大人の教養というものがないので、少しは勉強しないとダメですね。
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