大内氏全盛頃の氷上山興隆寺遺構である梵鐘で大内義隆を大願主とし享禄5年(1532)に芦屋鋳物師によって鋳造されており国の重文に指定されている。
この梵鐘に刻されている銘文で天台座主親王が記した仏教経典の偈が、以前紹介した天文13年(1544)に大内義隆を施主とし廿日市鋳物師により鋳造された元地御前神社の梵鐘(現在、福山市沼隈町西光寺の梵鐘)にも天台座主親王刻銘はないけれど全く同じ仏教経典の偈が刻されているのである。
昨日、娘と孫達が九州へ帰る車に便乗し途中山口市で下車して徘徊した。先日桂公園北麓の妙見社を紹介したが、この妙見社は厳島神主家藤原氏が大内氏との結びつきが深かった時代か、神主家滅亡後大内氏の支配時代に守護神として祀られたものと思うと記した。
桜尾城に勧請したとみられる大内氏の氏寺、氏神であった氷上山興隆寺・北辰妙見社を参詣した。大内氏全盛頃は広大な伽藍であったようであるが大内氏の滅亡や明治の神仏分離で北辰妙見社と興隆寺の遺構は釈迦堂と梵鐘のみが残されている。
休業中の吉和魅惑の里から少し所山方面に向かった道路脇にかつてこども炭焼き会社と表示した炭焼き窯があったが現在は上画像のような状態であった。
これは吉和小・中学校の「総合的な学習の時間」で、かつてこの地方の産業であった炭焼きを体験するため地域の方々の協力によって作られた炭焼き窯のようであったが・・・
桜尾本町の旧西国街道沿いに唯一残っている往還松で、昨日紹介した海老塩濱境から津和野藩御船屋敷の間に文化6年(1809)ごろ50本の往還松が植えられていた。
往還筋松植場所本数並松苗数積帳写(上田家文書)によると海老塩濱境から岩戸土橋までの沖手片側に往還松10本、岩戸土橋から津和野藩御船屋敷までの両側に往還松40本が3間間隔で植えられていたようである。
佐方本町の旧国道(旧西国街道)脇に建立(昭和57年建立)されている一里塚跡碑で広島元安橋袂の里程元標より3里の塚跡である。
下画像は芸州吉田行程記の絵図で一里塚が一里山と記されている。村境の東側が五日市村、西側が廿日市村とあるが東側は海老塩濱、西側は佐方村で佐方村内に一里塚はあった。
昨日紹介した妙見社の本尊妙見菩薩像は右手に宝剣を持って亀甲の上に立っており、足元には白蛇がどくろを巻いている軍神の容姿像で明和7年(1770)の墨書銘がある。
大内氏の妙見尊崇については長享元年(1487)の大内家壁書に、鼈(すっぽん)、亀及び蛇は氷上山の御仕えのものという堅い信仰に基づき、鷹の餌として鼈、亀、蛇を用いてはならず事の次第によっては死罪にするとの極めて厳しい厳命が下されていたようである。
江戸初期の寛永15年(1638)地詰帳に「めうけん」のホノギがみられることなどから妙見社は厳島神主家藤原氏が大内氏との結びつきが深かった時代か、神主家滅亡後大内氏の支配時代に守護神として祀られたものと思われる。
桜尾城跡は削平されて全く遺構は残されていないが、桂公園北麓には大内氏の氏神である氷上山興隆寺妙見社を分祀して桜尾城の守護神(軍神)として勧請された妙見社が現在も祀られている。この妙見社は厳島神主家藤原氏が大内氏との結びつきが深かった時代か、神主家滅亡後大内氏の支配時代に守護神として祀られたものとみられる。
昭和7年(1932)に改築されたとみられる現在の妙見社屋根は破損して長期間に亘って応急覆いがしてあり先行きが危惧されるのである。
梅雨の真っただ中の昨日、梅雨太郎さんに会えるかと行ってみたが石罅には見当たらなかった。駐車場には4台の車が梅雨太郎水を汲みに来ておられた今時期は梅雨水では・・・
岩国市六呂師大藤に梅雨時分蛇岩より白蛇が頭を出すといわれる梅雨左衛門岩がある。(下画像)岩国市岩根でもかつて梅雨時分白蛇が岩上に出ており梅雨左衛門と言われていたようである。
元の広電廿日市駅前にあるこの建物は元広電バス廿日市営業所があったところで、ここから津田、玖島、吉和、秋掛、本郷、河内、石内、湯来方面にバスが発着していた。昭和18年(1943)の広電買収統合する以前はマキノバスの自動車客待合所であった。
昭和29年(1954)に国道2号線沿い(現豊田石油店ケ所)に廿日市営業所は移転している。当ブログ主が子供の頃母親の里である河内へ行くのにここから湯来行きに乗っていたことが思い出される。
現在中央市民センター(工事看板には中央公民館)の改築工事が行われており、2階床の仮枠工事や鉄筋工事が行われているのであろうか。看板表示では来年2月末までの工期となっている。
かつてこの地には擬洋風建築の佐伯郡役所があったが昭和46年(1971)に取り壊されて翌昭和47年に以前の中央公民館が竣工していたが老朽化のために今回の改築となったようである。
廿日市の天神地区でかつて町屋が3軒並んで(下画像)廿日市町並みの面影をよく残していたが、中央の町屋が十数年前に新築され残っていた手前の町屋は既に取り壊されており向こう側は取り壊し中であった。
廿日市の町屋は幕末の慶応2年(1866)長州戦争で焼失しており、これらの町屋はそれ以降に再建されたもので手前と中央の町屋には古材を使用した痕跡が各所にみられたものであった。廿日市町屋図
佐伯所山地区の県道471号線沿いにある民家付属建物にレトロな薬看板が残されており、看板には「病には日広のせんじ薬、広島市三篠本町一丁目、ニチヒロ漢方薬相談所」とあった。
今は通る人もほとんど無い限界集落であるがこの看板が表示された頃には所山地区もまだ賑わいが残っていて吉和地区や宇佐地区方面への人通りもあったのであろうか。
JR廿日市駅の橋上駅舎と自由通路の工事が仮囲いの中で行われており来年3月末に完成するようで、それに伴って画像手前のレトロな跨線橋は撤去されるであろう。
この跨線橋の骨組みの鉄骨は使用済みの古レールが使用されており、刻印によると1934年(昭和9年)と1935年(昭和10年)に八幡製鉄で製造されたもののようである。これらの刻印は以前20数ケ所で確認されていたが現在は厚い塗装で確認しづらくなっている。
下平良地区の西広島バイパス側道に設けられている逆サイフォン式農業用水路で、西広島バイパスの築造により水路が分断されたために2ケ所設けられたものである。
西広島バイパス部分は暗渠とされており法面に呑口桝があるが草に隠れて分かりにくい。呑口桝から側道下を暗渠が設置され画像の吐口桝から井手に流れているが、左側の吐口桝からの井手は現在使用されていないようである。
男三瓶山頂から本来は日本海が見えるということであるがモヤで真っ白、昼食後子三瓶山に向かった。
なだらかな男三瓶山頂から約250m位標高差の岩屑だらけで足場の悪い急傾斜道を下り赤雁山裾から子三瓶山(標高961m)、孫三瓶山(標高903m)へと周回し、観光リフト終点近くの大平山(標高854m)に至り登山口に下山した。昼食、休憩を含めて6時間のお鉢巡りであった。上画像は山頂を見せなかった男三瓶山、下画像は右側に子三瓶山、左側に孫三瓶山と左下に火口池の宮ノ内池がみえる。