一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

中原の名局(名手)・4

2023-09-02 14:34:10 | 名局
きょう9月2日は、中原誠十六世名人の76歳の誕生日。おめでとうございます。
そこできょうは、「中原の名局」を4年ぶりにアップしようと思う。
といっても、昨今は著作権の関係で、全記譜をアップできない。そこで、「名局」ならぬ「名手」をアップしたい。
将棋は1981年10月1日、2日に行われた、第22期王位戦(新聞三社連合、日本将棋連盟主催)第7局・中原王位VS大山康晴王将戦である。ここまで中原王位側から見て、○●○○●●で、最終決戦となった。
ちなみに当時のタイトルの分布は、加藤一二三十段、二上達也棋聖、米長邦雄棋王。王座はまだ準タイトルで、大山王座だった。つまりここで大山王将が王位を奪取すると58歳にして二冠となり、タイトル数のトップが移動する。将棋界注目の大一番だった。
将棋は大山王将の三間飛車に、中原王位は天守閣美濃。中盤は例によってごちゃごちゃした戦いになり、抜群に面白い。藤井猛九段の解説で聞いてみたいところだがそれはともかく、将棋は大山王将がわずかに駒得ながら、中原王位も厚みを築き、やや先手よしの局面で第1図を迎えた。

ここで中原王位の期待手は△3六歩。以下▲同桂△同桂▲同玉△4四桂と進めば、後手十分の形勢になる。
しかし現実は歩切れで、ここで中原王位に名手が出た。

第1図から△9八と!(第2図) 歩を取りに行ったのだ。これに▲9六歩は△9七とでやがて取られる。よって大山王将は▲6四歩と垂らしたが、中原王位は△3三桂と跳ねて全軍躍動。
さらに中原王位は予定通り歩を入手し△3六歩を実現。以下も手厚い攻めで薄氷の防衛を果たしたのだった。
中原十六世名人の将棋は攻めに手厚く、アマが勉強するには格好の教材である。将棋が強くなりたかったら、中原十六世名人の将棋を並べるとよい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大山の名局・12

2023-07-26 23:46:04 | 名局
きょう7月26日は、大山康晴十五世名人の命日である。1992年(平成4年)のことだから、もう31年も経ってしまった。
当時私は、新卒で入った会社をリストラされ、つかの間のモラトリアムを北海道旅行に充てていた。7月26日、旭川の地からオヤジに定時電話をかけると、オヤジが話の最後に「あと、大山が死んだ」と、散文的に言った。いまだったらスマホで一発だが、当時はこんな感じで最新ニュースを入手したのだ。
私は、とうとうこの日が来てしまった、と思った。6月に棋聖戦60期のパーティーがあり、棋聖16期の大山十五世名人も参加したが、げっそりと頬がこけていた。その後しばらくして、大山十五世名人入院。もう、何があってもおかしくないと、覚悟を決めていたのだ。

さて、命日恒例の「大山の名局」だが、昨今はほとんどの棋戦が、記譜の全譜掲載をNGにしている。そこで、終了した棋戦から選んでみた。
これでクレームがつくようなら、来年からは「大山の名手」に改題するしかない。いや、それまでこのブログが続いているかどうか……。

1978年(昭和53年)8月18日
第5期名将戦 本戦2回戦
▲八段 米長邦雄
△十五世名人 大山康晴

▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲4八銀△3二銀▲6八玉△4二飛▲7八玉△6二玉▲5六歩△7二玉▲9六歩△9四歩▲5八金右△8二玉▲7七角△4三銀▲8八玉△7二銀▲5七銀△5二金左▲2五歩△3三角▲9八香△6四歩▲9九玉△7四歩▲6六銀△6三金▲6八角△2二飛▲8八銀△8四歩▲3六歩△5四歩▲7九金△7三桂▲4六角△4五歩▲3七角△4四銀▲7五歩△8三銀▲6八金寄△7二金▲7四歩△同銀▲7七金△5五歩▲7六金△8三銀▲5五歩△4六歩▲同歩△6五歩▲同銀△5五銀▲4五歩△4六歩▲5四歩△4七歩成▲2六角△5二歩▲7四歩△6五桂▲同金△6四銀打▲7五桂△6五銀▲6三桂成△同金▲7三金△同金▲7一角成△同玉▲7三歩成△8二金▲7八飛△7六桂▲6三金△7四金▲7六飛△同銀▲8三と△同金▲8六桂△7三飛(図)▲6二銀△8二玉▲7三金△同金引▲6一飛△7二金打▲7三銀成△同金寄▲7四歩△6三金寄▲9五歩△6二銀▲9四歩△9二歩▲7五金△6七銀成▲6八歩△5七角▲6五金△5六銀▲6七歩△6五銀▲6六銀△同銀▲同歩△同角上▲7八金△8五歩▲9三銀△同歩▲同歩成△同角▲同香成△同角成▲5五角△6四歩▲9四歩△9五香▲9七桂△7五馬▲2二角成△7一金打▲2一飛成△8六歩▲1一馬△6六桂▲8五香△同馬▲6六馬△7五銀▲7七桂△7四馬▲7五馬△同馬▲8五飛△8四角▲9三銀△同香▲同歩成△同玉▲9五飛△同角▲9六香△9四香▲8五桂右△8三玉▲6七桂△6六馬▲7七香△6九飛▲7九歩△8七歩成
まで、160手で大山十五世名人の勝ち。

「名将戦」は週刊文春主催で、1973年から1987年まで開催された。記譜は当然「週刊文春」に載り、見開き2ページで1局が完結していた。
当時大山十五世名人は55歳。この年の2月に虎の子の棋聖を失い再度の無冠になったが、まだまだトップグループに君臨していた。
対する米長八段はA級8期目の35歳。途中名人挑戦もあり、中原誠名人をあと一歩まで追い詰めたが、ここまで棋聖1期のみに甘んじていた。
将棋は米長八段の居飛車に、大山十五世名人の四間飛車。と、米長八段は穴熊に潜る。
5~7筋からごちゃごちゃした戦いになり、米長八段の攻め、大山十五世名人の受け、という展開になった。
米長八段は飛車を切り飛ばし、返す刀で▲8六桂。この金取りが厳しく、米長八段は優勢を意識した。
ところが大山十五世名人は涼しい顔で△7三飛!(図)

このあたりの状況を、米長八段の著書「米長の将棋2 居飛車対振飛車・下」(MYCOM 将棋文庫DX)182ページから引用しよう。
「私の攻めが決まったかに見える局面である。
ところが、平然と△7三飛と打たれた。
これは夢想だにしなかった。▲6二銀が見えているだけに気がつかない筋である。しかも飛車を受けだけに手放すのだからなおさらだ。
大山十五世名人に受けの妙手は数多いが、△7三飛も歴史に残る手であろう。」
以下も難しい将棋は続くのだが、160手まで大山十五世名人が勝った。両雄らしいごちゃごちゃした戦いで、これぞ将棋と思う。
令和の現在、こうした将棋が見られなくなったのは寂しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大山の名局・11

2022-07-26 23:42:32 | 名局
きょう7月26日は、大山康晴十五世名人の命日である。平成4年の没だから、もう30年も経ってしまった。
当時私は北海道を旅行中で、当日は旭川にいた。家に電話を掛けたところ、オヤジから「大山が死んだ」と聞かされ、呆然としたのであった。
それから30年、大山十五世名人は、現在もあっちこっちのネットで話題になっている。肉体はほろびても、大山将棋は現在も生きているのだ。
さて恒例の「大山の名局」第11弾は、1974年1月7日・8日に指された、第12期十段戦第7局(主催:読売新聞社、日本将棋連盟)である。
前年の2月、第22期王将戦で中原誠名人に0-4で敗れ無冠に転落した大山十五世名人。当時はテレビで特集番組が放送されるなど、大変な衝撃だった。
しかし大山「九段」はすぐに立ち直ってきた。この年の秋、第12期十段戦で挑戦者になり、中原十段(名人、王将、王位)に挑戦したのである。
七番勝負はシーソーゲームとなり、翌年1月7日、最終決戦を迎えた。
将棋は大山九段の先手になり、三間飛車に振った。中原十段は舟囲いから急戦を狙う。
△8六歩を大山九段は▲同角と取り、数手後、▲9六香と上がった。端の香上がりはいまや常識だが、4段目まで上がったのは珍しい。
そこから華麗な攻め合いとなり、大山九段がわずかにリードを保ち、中盤戦から終盤戦に突入した。

第1図以下の指し手。△3五香▲2六桂△3三桂▲1七桂△3一角▲3四桂△4一金▲7七銀△7二銀▲同竜△8七角成▲同歩△7八飛(第2図)

△3五香は先手玉にプレッシャーを掛けた手。対して大山九段の▲2六桂があまりよくなかったようだ。
なぜなら後手に銀が入ると、△2八銀で一発だから。そしてその銀は8六に落ちている。そこで後手は△8五歩▲9五銀△9七香成▲8五飛△7七角成として、この銀を狙いに行くのがよかった。
しかるに中原十段は△3三桂。むろん△2五桂を狙ったものだが、これには▲1七桂の対抗がピッタリである。
▲3四桂の両取りを防いで中原十段は△3一角と引いたが、大山九段はそれでも桂を跳ね、▲7七銀と飛車筋を開いて指し易くなった。
中原十段は△8七角成だが、先手は半分遊んでいた飛車が急所の角と交換になり、十分である。

第2図以下の指し手。▲6三銀△6二歩▲5二銀不成△同金▲6一竜△5一銀(第3図)

第2図で後手は△4八桂成の切り札があるが、▲3六歩で耐えている。よって、▲6三銀と攻め合った。ここ、▲8五角もよさそうだが、△6二歩と受けられてパッとしない。
本譜も似た展開になったが、金銀交換後の▲6一竜が厳しい。後手は△5一銀と受けざるを得ず、先手がいよいよよくなった。
とはいえ、ここらあたりで決め手がほしいところである。

第3図以下の指し手。▲6六銀△1三角▲5七銀 以下、113手まで大山九段の勝ち。

第3図では▲8五角の攻め合いもあるが、優勢なほうが斬り合いに持ち込まなくてもよい。
じっと▲6六銀が大山九段らしい手で、こう躱しておけば後手は指し切り、の読みである。
△1三角には▲5七銀と引き、8六の僻地にいた銀が、立派に守り駒になった。遊び駒を巧妙に働かせる。これぞ大山将棋の真骨頂である。
以下113手まで、大山九段の勝利となった。ときに大山新十段50歳。この後大山十段は「50歳の新人」を宣言し、中原名人との激闘を繰り広げていくのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芹沢の名局

2021-12-09 12:58:53 | 名局
きょう12月9日は、芹沢博文九段の命日である。1987年の逝去だから、もう34年が経ってしまった。
芹沢九段の人となりは10年前も書いたから重複を避けるが、芹沢九段は「将棋の日」をプロデュースしたことでも知られる。
第1回は1975年11月17日、東京・蔵前国技館で行われた。第14期十段戦第2局・中原誠十段対大山康晴棋聖戦の公開対局が目玉だった。当日は月曜日だったが、8,000人を越える入場者があったという。将棋は3手だけ進んだが、封じ手まで進み、将棋ファンは大満足したという。
いまも「将棋の日」は各地持ち回りで行われているが、それも芹沢九段がいなければ、数年は開催が遅れていたかもしれない。
きょうは芹沢九段の名局をお届けする。対局相手は谷川浩司九段である。
芹沢九段は、谷川九段を高く買っていた。人格はもちろん、格調高い将棋に対して、最大限の賛辞、敬意を払っていた。エッセイ集「王より飛車が好き」(サンケイ出版)では谷川九段を「流れた水が長き時をかけて元の所に戻って来るような無限運動を思うことがある。(中略)谷川は将棋を一局ずつと捉えずに、生涯を一局と無意識に表現する何かがあるのかも知れない」と評していた。
その芹沢九段が第40期B級1組順位戦で、19歳の谷川七段(当時)と当たることになった。芹沢八段(当時)は、谷川七段と最初で最後の戦いになると覚悟した。そこで対局の1週間前から酒絶ちをし、この対局に臨んだのであった。

1981年12月25日 第40期順位戦B級1組7回戦
▲七段 谷川浩司(19歳)
△八段 芹沢博文(45歳)

▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2六飛△6二銀▲7六歩△8六歩▲同歩△同飛▲9六歩△3四歩▲2四歩△同歩▲同飛△5四歩▲3四飛△4一玉▲7七桂△7四歩▲3六飛△4四角▲2四歩△3三桂▲8七歩△8二飛▲6五桂△8八角成▲同銀△2二歩▲3四飛△8五飛▲3五飛△8三飛▲7五歩△6四歩(第1図)
▲4六角△8二角▲7四歩△6五歩▲8二角成△同飛▲6四角△9二飛▲6五飛△6三歩▲4六角△5五桂▲5八金△7二飛▲5六歩△8四角▲6六歩△7四飛▲7五歩△同角▲7六歩△4二角▲5五歩△6五桂▲7五飛△同角▲同歩△同飛▲7六歩△5五飛▲同角△同歩▲7五角△3五角▲8一飛△7一歩▲9一飛成△5六歩▲3六香△4四角▲4八桂△5七歩成▲同金△3五歩▲5六桂△5五角▲3五香△2五飛▲2三歩成△同歩▲3三香成△同金▲2六歩△同飛▲2八歩△5一香▲9二竜△3八歩▲7四桂△5三銀▲3八銀△2八飛成▲5四歩△4二銀▲4八玉△3六歩▲4六金△同角▲同歩△5四香▲4五角△4四金▲4二角成△同銀▲3二銀△5一玉▲2三角成△3九角▲5九玉△2三竜▲同銀成△5六香▲6九玉△5七角成▲2一飛△3一桂▲6八金△5九角(投了図)
まで、130手で芹沢八段の勝ち。

ここまで芹沢八段は1勝5敗、谷川七段は4勝1敗だった。芹沢八段に降級の恐怖はないが、昇級を狙う谷川七段はもう負けたくないところ。
将棋は先番谷川七段のひねり飛車模様となったが芹沢八段が手将棋に誘導し、定跡のない相居飛車に落ち着いた。
芹沢八段は飛車の巧妙な動きで桂得を果たす。

以下も溌剌と指し、芹沢八段が有利を拡大する。そして終盤では勝勢になったが、谷川七段は表情ひとつ変えない。それを見て、芹沢八段のほうがおののいたという。
結局130手まで、芹沢八段の勝ち。双方飛車角が乱舞する、芹沢八段の名局であった。

これで芹沢八段は2勝5敗としたが、以後を全敗し2勝10敗で降級。いっぽう谷川七段は以後を全勝し、10勝2敗でA級八段に昇級昇段する。そして1983年には加藤一二三名人から名人奪取を果たす。実に21歳の名人であった。これを芹沢九段は「目の前にある好きな果物を手に取るように、名人位を獲ってしまったのである」と書いた。
名人位を狂おしいほど望みながら、己の限界を知って名人を諦めた芹沢九段。心中、複雑な気持ちがあったに違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一二三の名局・4

2021-12-03 00:18:55 | 名局
日付変わってきょう12月3日は「1,2,3」。そこで3年振りに、「一二三の名局」を記そう。
今回取り上げるのは1960年4月14日・15日に指された、第19期名人戦第1局である。
加藤八段は弱冠20歳のA級2年生。18歳でA級八段、20歳で名人挑戦と、当時は大きな話題になったものである。
名人はもちろん大山康晴。前年に升田幸三名人から名人を奪取。対局時は王将、九段と合わせ三冠王だった。
第1局の対局場は都内の「羽沢ガーデン」。加藤八段の先手で、相矢倉になった。大山十五世名人といえば振り飛車が代名詞だが、若いころは居飛車一辺倒で、このころは表芸が居飛車、裏芸が振り飛車だった。
全譜を記すと棋譜警察から通知がくるので、序盤は端折る。

第1図以下の指し手。▲7九角△4四銀左▲4六歩△5五歩▲4七銀△5四銀(第2図)

第1図の▲7九角に△4四銀左が意外。だが、妙に新しい。ここふつうに△4四歩だと、手詰まりになるのを嫌ったようだ。
以下△5四銀まで進んでみると、令和の将棋のようではないか。

そこから数手飛ばして第3図。

第3図以下の指し手。△5二玉▲7九玉△3四歩▲8八玉△9四歩▲6六歩△8六歩▲同銀△4四歩▲7五銀△7三角(第4図)

昨今の矢倉は▲4六角型が最強の形とされているという。本局は先手後手とも偶然ながらその形になった。
ここで大山名人は△5二玉と玉形を整えた。この局面、本当に令和の将棋のようである。
先手は▲8八玉と収め、▲6六歩が期待の一手。これに△6六同歩なら▲同銀△6五歩に▲7五銀と進出して先手良し。
よって大山名人は△8六歩▲同銀を利かし、こちらも△4四歩の攻め合いである。この、歩が着々と進む感じ、駅馬車定跡を思い出した(参考図)。

先手も▲7五銀と進出し、△7三角と引かせる。さて次の手は。

第4図以下の指し手。▲2五桂△4二銀▲3三歩△同桂▲同桂成△同銀▲6五歩△同銀▲5三歩(第5図)

先手の加藤八段は快調に指しているが、やや戦力不足。そこで加藤八段は▲2五桂と跳ねた。そして▲3三歩から桂交換。問題はこの桂をどこに使うかだ。
その第一弾が、▲6五歩△同銀を利かしての▲5三歩である。

第5図以下の指し手。△4三玉▲6四歩△6二金▲4四歩△同銀▲4五歩△同銀▲5五角△4四歩▲5七桂(第6図)

第5図で△5三同金は▲6六歩△7六銀▲7七歩△8五銀▲6五桂で先手優勢。
よって大山名人は△4三玉と躱したが、加藤八段は▲6四歩△6二金を利かして好調である。
▲5五角には△4四歩よりないが、ここで待望の▲5七桂が入り、ハッキリと先手が優勢になった。

棋譜紹介はここで打ち切るが、以下は加藤八段がそのまま押し切った。

投了図を見ると文字通り加藤八段の快勝で、加藤八段の名局といって差し支えない。
加藤八段が制勝し、将棋マスコミは加藤新名人の誕生かと沸き上がった。しかしそこは大山名人である。第2局以降は大山名人が立ち直り、4連勝で名人位を防衛。そして1971年まで、防衛を続けるのである。
いっぽうの加藤九段は、次の名人戦登場は1973年となった。しかし中原誠名人にストレートで敗れ、名人獲得は1982年まで待つことになる(「一二三の名局・2」を参照)。名人戦初登場から、実に22年も経っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする