きょう1月14日は、振り飛車の神様・大野源一九段の命日である。1979年の没だから、もう46年も経ってしまった。
大野九段は1911年生まれ。木見金治郎九段門下で、弟弟子に升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人がいる。戦後から振り飛車を採用するようになり、その芸術的な捌きは、多くの棋士に影響を与えた。
大山九段(当時)が升田名人(当時)にタイトルを全部取られたころ、疲労困憊だった大山九段に、大野九段が振り飛車を勧めたのは有名な話である。
図は1962年9月3日に指された、第1期十段戦挑戦者決定リーグ・大山名人戦(主催:日本将棋連盟、読売新聞社)。
大野九段は三間飛車が得意で、左銀を4六に出る手を好んで指した(歩は4七が定型。以下の指し手も記したいのだが、長くなるので省略する)。
1969年度のB級1組順位戦は好調で、最終局を前に9勝3敗。もちろん自力だったが、最終戦に米長邦雄七段(当時)に敗れ、大魚を逸した。なおこのときの一戦は、のちに米長永世棋聖の脚色によって、「米長哲学」として、広く知られることになった。
1973年には、当時一般棋戦だった王座戦で、62歳にして挑戦権を獲得した。結果は中原誠王座に2連敗したが、その奮闘は当時大きな話題になった。
晩年はC級1組まで落ちたが、まだまだ腕に歳は取らせない、というところで、1979年1月14日、列車待ちのとき、踏切を無理に渡ろうとして、事故死。衝撃的な最期だった。
余談だが、この年から私は十段戦の観戦記をスクラップしはじめたのだが、陣太鼓氏(山本武雄九段)がこの訃報を伝えていたのを思い出す。
さらに余談だが、「大野の振り飛車」(弘文社、1971年)の古本を持っていたが、2017年の例の大掃除で、上のスクラップともども、(たぶん)棄ててしまった。まったく、あのときの私はどうかしていた。
それはともかくAI全盛の今、大野九段の捌きを彷彿とさせる若手棋士は、もう現れないだろう。
大野九段は1911年生まれ。木見金治郎九段門下で、弟弟子に升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人がいる。戦後から振り飛車を採用するようになり、その芸術的な捌きは、多くの棋士に影響を与えた。
大山九段(当時)が升田名人(当時)にタイトルを全部取られたころ、疲労困憊だった大山九段に、大野九段が振り飛車を勧めたのは有名な話である。
図は1962年9月3日に指された、第1期十段戦挑戦者決定リーグ・大山名人戦(主催:日本将棋連盟、読売新聞社)。
大野九段は三間飛車が得意で、左銀を4六に出る手を好んで指した(歩は4七が定型。以下の指し手も記したいのだが、長くなるので省略する)。
1969年度のB級1組順位戦は好調で、最終局を前に9勝3敗。もちろん自力だったが、最終戦に米長邦雄七段(当時)に敗れ、大魚を逸した。なおこのときの一戦は、のちに米長永世棋聖の脚色によって、「米長哲学」として、広く知られることになった。
1973年には、当時一般棋戦だった王座戦で、62歳にして挑戦権を獲得した。結果は中原誠王座に2連敗したが、その奮闘は当時大きな話題になった。
晩年はC級1組まで落ちたが、まだまだ腕に歳は取らせない、というところで、1979年1月14日、列車待ちのとき、踏切を無理に渡ろうとして、事故死。衝撃的な最期だった。
余談だが、この年から私は十段戦の観戦記をスクラップしはじめたのだが、陣太鼓氏(山本武雄九段)がこの訃報を伝えていたのを思い出す。
さらに余談だが、「大野の振り飛車」(弘文社、1971年)の古本を持っていたが、2017年の例の大掃除で、上のスクラップともども、(たぶん)棄ててしまった。まったく、あのときの私はどうかしていた。
それはともかくAI全盛の今、大野九段の捌きを彷彿とさせる若手棋士は、もう現れないだろう。