(14日のつづき)
私と郁子さんが武家屋敷通りを歩いた時、郁子さんは美容院のママさんと食事を摂ってきた、と言ったのだ。
ということは、郁子さんはそのママさんとはかなり親しい間柄であろう。となれば二人が年賀状のやりとりくらいしているかもしれない。その美容院をあたろうと思ったのである。
私は平成13年3月に広告代理店を退職し、4月より家で働き始めた。仕事内容は無味乾燥なものだったが、人と交わらない気楽さはなかなかによかった。
ゴールデンウィークは暦通りの休みとなり、5月3日、私は角館へ向かった。私はこの翌年から、ゴールデンウィークの旅行は博多どんたく専門になったが、当時は北海道や東北、上越など、毎年違うエリアを訪れていた。
東北新幹線09時56分東京発の「やまびこ9号」に乗った。ゴールデンウィークの真っ只中なので指定席は取れず、自由席を立って行く。一ノ関でようやく座れた。
盛岡で秋田新幹線「こまち11号」に乗り換え、14時21分、定刻を1分遅れて、新幹線は角館に着いた。
早速美容院をあたればいいのだが、それは興信所みたいな行動なわけで、さすがにプレッシャーがかかる。まずは桧木内川堤の桜並木を見に行った。
武家屋敷通りを抜けると桧木内川にぶつかった。約2キロの川沿いに、約400本のソメイヨシノが艶やかに咲き誇る。小高い丘に登って全容を見渡すと、それは素晴らしい光景だった。この同じ景色を、郁子さんは何度も見たのだろう。
名残惜しいが、武家屋敷通りに戻る。私が郁子さんに会った時、彼女は駅方面からやってきた。すなわち、彼女の自宅からここまでのエリア内にその美容院があると考えられる。
それで街中をあたってみたが、意外に理髪店や美容院が多いのに驚いた。そういえばサイトウ理髪店もそのひとつだ。
一軒一軒あたればいいのだが、さすがに気後れしてしまう。13年前にはなかったようなシャレた店舗は省き、個人で経営してそうな店を選ぶ。それでもなかなか入りづらい。
「三浦笑子美容室」という、こぢんまりとした造りの店舗があったので、思い切って入った。
そこには40歳前後と思しきママさんが、小学生低学年と思しき少女の髪を編んでいた。ママさんが三浦笑子さんだろうか。そしてその傍には、彼女の母と思しき女性がいた。客らしき人はいなかった。
私はママさんに、おずおずと用件を切り出す。こちらはラストチャンスと思っているから、ひたすら低姿勢である。ママさんは一瞬怪訝な顔をしたが、話を聞いてくれることになった。ただこう言ってはなんだが、ここまでの経緯は、少なからず興味を惹いてくれると確信していた。
この何年か前のことである。講談社発行の青年漫画誌「ミスターマガジン」に、「領収書物語」という人気漫画があったのだが、ある時特別企画として、この原作を読者から募集することになった。入賞数作は漫画化されという特典である。
そこで私は「角館の美女」を基に物語を作り、投稿した。すると、462名の応募で73作品が一次選考を通過したのだが、その中に拙作も入っていた。残念ながら入賞は無理だったが、私の体験談は客観的に見ても面白いのだと確信した。
果たしてママさんは途中で口を挟むでもなく、少女の髪を編みながら、時に相槌を打って聞いてくれた。おばあさんも席を外すことなく、私の話を静かに聞いていた。
すべて話し終えると、ママさんが
「郁子さんなら知ってるわよ」
と言った。だがいっしょに食事をする仲ではなく、近所に住んでいる、との認識があるだけだった。「何年か前に見たかなあ」
「見た!」
だがその情報は私だって知っている。平成6年、私が郁子さんへのアプローチを2~3週間早めれば、私からの手紙を彼女が読んでくれたかもしれないのだ。
「うん、話をしたわけじゃないけど。でも郁子さん、結婚したんじゃなかったかな」
「結婚した!?」
「うん、そんな話を聞いたことがあるんだけど」
やはりそうであろう。彼女も今年の7月で37歳だ。どう考えても、結婚しているはずである。というか、7年前でさえ、彼女には将来を決めた男性がいたのだ。「でも分からないよ。お姉さんだったかもしれないし」
その言葉が虚しく聞こえた。
「……あのう……角館はずいぶん美容院が多いように思うんですが」
「そりゃそうよ! 秋田県は美容院の割合が日本一なんだから!」
ママさんは力強く言った。このかなり数年後、日本テレビ系の「笑ってコラえて!」で知ったのだが、秋田県は中村芳子という美容師が国産パーマ機を日本で最初に取り入れ、美容業界の発展に多大な貢献をしたらしい。それに伴い秋田県は美容院の数が多くなったという。
また秋田県は女性が下着にかけるお金も多いらしく、さすがに秋田美人の面目躍如というか、内面と外見から美しさを磨いていたのであった。
「あのう……郁子さんに連絡を取れる方法ってないでしょうか」
「ないわねー。じゃあさ、あなた今ここで郁子さんに手紙を書きなさい。もし私が郁子さんを見かけたら、その手紙を必ず渡すから」
なるほど前回のうどん屋は名刺を渡すだけだったが、手紙を添えれば、また違う結果になるかもしれない。
そこで私は、その店の片隅で、郁子さんへの思いをしたためた。でも我ながら、何をやってるんだろうと思う。
私は何とか書き終え、この3月で使わなくなった名刺とともに、ママさんに差し出した。
「うん、確かに預かりました。私はこの内容を読まないよ。それでこう……はい、封筒に入れました。もし私が郁子さんに会ったら、必ずこの手紙を渡します。約束する。それで郁子さんからあなたに返事が行けばいいし、行かなかったらそこまでの関係だったってことだよ」
「ああ、ありがとうございます」
私はその一家に丁重に礼を言い、店を出た。厳密に言えば、郁子さんと食事をした美容院ではなかったわけだから、本当ならほかをあたらねばならない。しかしもうその気力が残っていなかった。こんなバカな真似はもうできない。私はそのまま、角館を後にした。
そして帰京して何ヶ月経っても、郁子さんから連絡は来なかった。これは当然予想できたことで、落胆がなかったといえば嘘になるが、覚悟はしていた。
郁子さんに会ってから13年、遅ればせながら、私はよく頑張ったと思う。実家を訪ねてご両親に会い、彼女の名前の由来や生年月日も教えてもらった。新卒で入った会社も知り得たし、角館の方々の親切にも触れることができた。
でもやっぱり、つらい毎日だった。もしあの日私が角館に降りなかったら……。もし私が武家屋敷に行かなかったら……。もし書き物をしていた女性があのままコーヒーを出していたら……。どのすべてが欠けても、私は角館の美女に会うことはなかった。あんなに苦しい思いをしなくて済んだのだ。
では会わないほうがよかったのか?
いややっぱり、会えてよかったと思う。いままで私は、あんなにひとりの女性を好きになったことはなかった。そしてその幻の女性に会うために、なりふり構わず行動したのだ。
私が中年になった今、真っすぐに生きていた当時の自分が懐かしく、そして誇らしくも感じられるのである。
(完)
私と郁子さんが武家屋敷通りを歩いた時、郁子さんは美容院のママさんと食事を摂ってきた、と言ったのだ。
ということは、郁子さんはそのママさんとはかなり親しい間柄であろう。となれば二人が年賀状のやりとりくらいしているかもしれない。その美容院をあたろうと思ったのである。
私は平成13年3月に広告代理店を退職し、4月より家で働き始めた。仕事内容は無味乾燥なものだったが、人と交わらない気楽さはなかなかによかった。
ゴールデンウィークは暦通りの休みとなり、5月3日、私は角館へ向かった。私はこの翌年から、ゴールデンウィークの旅行は博多どんたく専門になったが、当時は北海道や東北、上越など、毎年違うエリアを訪れていた。
東北新幹線09時56分東京発の「やまびこ9号」に乗った。ゴールデンウィークの真っ只中なので指定席は取れず、自由席を立って行く。一ノ関でようやく座れた。
盛岡で秋田新幹線「こまち11号」に乗り換え、14時21分、定刻を1分遅れて、新幹線は角館に着いた。
早速美容院をあたればいいのだが、それは興信所みたいな行動なわけで、さすがにプレッシャーがかかる。まずは桧木内川堤の桜並木を見に行った。
武家屋敷通りを抜けると桧木内川にぶつかった。約2キロの川沿いに、約400本のソメイヨシノが艶やかに咲き誇る。小高い丘に登って全容を見渡すと、それは素晴らしい光景だった。この同じ景色を、郁子さんは何度も見たのだろう。
名残惜しいが、武家屋敷通りに戻る。私が郁子さんに会った時、彼女は駅方面からやってきた。すなわち、彼女の自宅からここまでのエリア内にその美容院があると考えられる。
それで街中をあたってみたが、意外に理髪店や美容院が多いのに驚いた。そういえばサイトウ理髪店もそのひとつだ。
一軒一軒あたればいいのだが、さすがに気後れしてしまう。13年前にはなかったようなシャレた店舗は省き、個人で経営してそうな店を選ぶ。それでもなかなか入りづらい。
「三浦笑子美容室」という、こぢんまりとした造りの店舗があったので、思い切って入った。
そこには40歳前後と思しきママさんが、小学生低学年と思しき少女の髪を編んでいた。ママさんが三浦笑子さんだろうか。そしてその傍には、彼女の母と思しき女性がいた。客らしき人はいなかった。
私はママさんに、おずおずと用件を切り出す。こちらはラストチャンスと思っているから、ひたすら低姿勢である。ママさんは一瞬怪訝な顔をしたが、話を聞いてくれることになった。ただこう言ってはなんだが、ここまでの経緯は、少なからず興味を惹いてくれると確信していた。
この何年か前のことである。講談社発行の青年漫画誌「ミスターマガジン」に、「領収書物語」という人気漫画があったのだが、ある時特別企画として、この原作を読者から募集することになった。入賞数作は漫画化されという特典である。
そこで私は「角館の美女」を基に物語を作り、投稿した。すると、462名の応募で73作品が一次選考を通過したのだが、その中に拙作も入っていた。残念ながら入賞は無理だったが、私の体験談は客観的に見ても面白いのだと確信した。
果たしてママさんは途中で口を挟むでもなく、少女の髪を編みながら、時に相槌を打って聞いてくれた。おばあさんも席を外すことなく、私の話を静かに聞いていた。
すべて話し終えると、ママさんが
「郁子さんなら知ってるわよ」
と言った。だがいっしょに食事をする仲ではなく、近所に住んでいる、との認識があるだけだった。「何年か前に見たかなあ」
「見た!」
だがその情報は私だって知っている。平成6年、私が郁子さんへのアプローチを2~3週間早めれば、私からの手紙を彼女が読んでくれたかもしれないのだ。
「うん、話をしたわけじゃないけど。でも郁子さん、結婚したんじゃなかったかな」
「結婚した!?」
「うん、そんな話を聞いたことがあるんだけど」
やはりそうであろう。彼女も今年の7月で37歳だ。どう考えても、結婚しているはずである。というか、7年前でさえ、彼女には将来を決めた男性がいたのだ。「でも分からないよ。お姉さんだったかもしれないし」
その言葉が虚しく聞こえた。
「……あのう……角館はずいぶん美容院が多いように思うんですが」
「そりゃそうよ! 秋田県は美容院の割合が日本一なんだから!」
ママさんは力強く言った。このかなり数年後、日本テレビ系の「笑ってコラえて!」で知ったのだが、秋田県は中村芳子という美容師が国産パーマ機を日本で最初に取り入れ、美容業界の発展に多大な貢献をしたらしい。それに伴い秋田県は美容院の数が多くなったという。
また秋田県は女性が下着にかけるお金も多いらしく、さすがに秋田美人の面目躍如というか、内面と外見から美しさを磨いていたのであった。
「あのう……郁子さんに連絡を取れる方法ってないでしょうか」
「ないわねー。じゃあさ、あなた今ここで郁子さんに手紙を書きなさい。もし私が郁子さんを見かけたら、その手紙を必ず渡すから」
なるほど前回のうどん屋は名刺を渡すだけだったが、手紙を添えれば、また違う結果になるかもしれない。
そこで私は、その店の片隅で、郁子さんへの思いをしたためた。でも我ながら、何をやってるんだろうと思う。
私は何とか書き終え、この3月で使わなくなった名刺とともに、ママさんに差し出した。
「うん、確かに預かりました。私はこの内容を読まないよ。それでこう……はい、封筒に入れました。もし私が郁子さんに会ったら、必ずこの手紙を渡します。約束する。それで郁子さんからあなたに返事が行けばいいし、行かなかったらそこまでの関係だったってことだよ」
「ああ、ありがとうございます」
私はその一家に丁重に礼を言い、店を出た。厳密に言えば、郁子さんと食事をした美容院ではなかったわけだから、本当ならほかをあたらねばならない。しかしもうその気力が残っていなかった。こんなバカな真似はもうできない。私はそのまま、角館を後にした。
そして帰京して何ヶ月経っても、郁子さんから連絡は来なかった。これは当然予想できたことで、落胆がなかったといえば嘘になるが、覚悟はしていた。
郁子さんに会ってから13年、遅ればせながら、私はよく頑張ったと思う。実家を訪ねてご両親に会い、彼女の名前の由来や生年月日も教えてもらった。新卒で入った会社も知り得たし、角館の方々の親切にも触れることができた。
でもやっぱり、つらい毎日だった。もしあの日私が角館に降りなかったら……。もし私が武家屋敷に行かなかったら……。もし書き物をしていた女性があのままコーヒーを出していたら……。どのすべてが欠けても、私は角館の美女に会うことはなかった。あんなに苦しい思いをしなくて済んだのだ。
では会わないほうがよかったのか?
いややっぱり、会えてよかったと思う。いままで私は、あんなにひとりの女性を好きになったことはなかった。そしてその幻の女性に会うために、なりふり構わず行動したのだ。
私が中年になった今、真っすぐに生きていた当時の自分が懐かしく、そして誇らしくも感じられるのである。
(完)