一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

角館の美女(第6回)

2018-11-14 12:37:07 | 小説
(2017年1月29日のつづき)

秋田新幹線田沢湖線の線路と交差するその道路は深く掘り下げられ、地下通路になっていた。つまり踏切が廃止されていたのだ。
なるほど在来線との併用とはいえ、新幹線に踏切はそぐわないのだろう。1年間の沿線工事には、こうした事業も含まれていたのだ。とはいえ私の思い出の景色がひとつなくなったのは、寂しいことだった。
私はサイトウ理容店にお邪魔する。なお今回は手土産として、水ようかんを持参した。
ご主人夫婦はもちろん私を憶えていて、私をストーカー扱いすることもなく、普通に応対してくれた。まあ私も「客」として伺ったのだから当然ではあるのだが。
ご主人からは、とくに新しい情報も聞けなかった。
カット代2,800円を払う。やっぱり安くなっている。昔は3,000円を越えていた気がするのだが。
郁子さんの自宅の前に立つ。またも動悸が激しくなるが、もうご家族は秋田市に引っ越しているはずだ。それが分かっていながら、私は何をしに来たのだろうと思う。
本当はご近所に顔も出したいのだ。しかし私は半ばストーカーとして認識されている。彼らが新しい情報をくれるとは思えなかった。
いつもはここから駅に引き返すだけだったが、今日はその先に行ってみた。景色は豊かな山々ばかりだったが、ポツンと今川焼を売っている店があった。つぶあんとこしあんを1個ずつ買い、頬張る。甘さを抑えた味で、美味かった。
とはいえもう、引き返すよりない。私は角館駅に戻り、鷹巣行きの秋田内陸縦貫鉄道に乗った。「急行もりよし」の先頭車両1番席は運転席を通して前方が見え、私は車窓風景を満喫した。
その夜は青森のビジネスホテルに泊まったが、青森市内で公衆電話を利用した時、電話ボックスに大判時刻表を忘れてしまったことに気付き、その夜は盛大に落ち込んだものだった。

次に角館を訪れたのは、翌平成10年4月3日である。私は広告代理店の仕事で忙しく、有給休暇を取れる雰囲気ではなかったので、1泊2日の行程となった。
今回は金曜日夜の夜行快速の「ムーンライトえちご」に乗り、村上から羽越本線で酒田、秋田と回り、そこから田沢湖線の在来線を使い、角館入りした。私も角館を訪れるのは10回近くになるが、この行程で入ったのは初めてである。
新幹線が開通してから角館はメジャーになり、観光客も増えた。そして角館といえば桧木内川の桜並木も有名である。桜の時期にはまだ1ヶ月早いが、その時期になれば、さらに観光客も増えるのだろう。
私は例によってサイトウ理容店に入り、カットしてもらう。なお今回は「くず笹餅」を持参した。
お代は2,000円で、しかもカユミ止めの液剤もくれた。大幅に安くしてもらった上に、返礼品まで貰ってしまった。ありがたいことだが、これは「もう角館には来ないでくれ」という、拒絶の意思に取れないこともなかった。
私も32歳になっていた。ということは、郁子さんは33歳。さすがに結婚しているはずで、もういい加減、郁子さんを絶ち切らねばならなかった。
郁子さんの家はまだ存在していた。しかしやはり、人がいる気配はない。このままこの家は、打ち棄てられていくのかと思った。

辺鄙な場所にある食堂でかつ丼を食べ、武家屋敷へ向かう。
その途中、ソフトクリームを買うべくGパンのポケットの小銭をゴソゴソやると、さっき入れたはずの五千円札がないことに気付いた。
私は青くなり、まさかと思いつつも食堂に戻ると、店先に五千円札が落ちていた。これは紛れもなく私のものだ! しかしこの間、よく誰にも気付かれなかったと思う。角館も武家屋敷以外のエリアは人通りが少ないようで、それが幸いした。
武家屋敷通りに入る。この日は大曲のビジネスホテルに予約を入れたので、安心して観光できる。
武家屋敷通りを歩く。この一角で、私は郁子さんに出会った。あの日のことは今でも鮮明に思い出せるが、同時に夢だったのかという気もしてくる。ただ、虚しさが募るばかりだ。
小腹が空いたので、駅前通りにあるうどん屋に入り、釜揚げうどんを注文した。
時間的に客はまばらで、手持無沙汰の店主のおばあさんが、私の近くに座った。
「角館へは初めて?」
「……いえ、もう10回ぐらい来ています」
「ほうほう、ありがたい。それは角館が気に入って……?」
「はあ、そうなんですが……」
私は戸惑いつつも、事情を話すことにした。見たところこの店は老舗のようだし、郁子さんの情報が聞けるかもしれないとの期待もあったからだ。郁子さんに会ってから9年半、今も彼女を追い駆けていることにストーカーのケはあるが、その想いを汲んでもらうよりないと思った。
おばあさんは私の話に耳を傾け、合間合間で深く頷いた。それがポーズでないことは、おばあさんが「あちらのお父さんは厳しい人だったんだね」「じゃあ引っ越して今はいないんだね」と、私の言葉を反芻して消化していたことで分かる。私はこのおばあさんが信用できると思った。
「じゃあね、その女性のことで何か分かったら、アンタに連絡してあげるよ」
とおばあさんは言い、私は名刺を渡した。
釜揚げうどんは735円だったが、消費税分はおまけしてくれた。

しかし私が帰京して翌年になっても、おばあさんから連絡は来なかった。
それはそうで、まず、おばあさんに郁子さんの情報が入らなかったことがひとつ。さらに万が一入っても、それをわざわざ私に報せることは、抵抗があったと思われる。あの場では青年の話を興味深く聞いたが、冷静に考えればあの男のやっていることはストーカーである。彼女の居所を教えて事件にでもなったら、責任の一端を被ることになる……。客商売の店舗が、そんな危険を冒すはずがなかった。
いやそんな大袈裟に考えずとも、おばあさんはあのあと、私の名刺をすぐに捨てた、というのが真相ではないだろうか。

平成13年になった。私はあの後も広告代理店に勤めていたが、この年の春に父から申し出があり、自営している金属プレスの仕事を手伝うことになった。つまり、広告代理店を退職することになった。この会社は社長が仕事人間で愛想も悪く、社内の雰囲気はいつもギスギスしており、すこぶる居心地が悪かった。何より残業手当が一切出ず、例えば休日にクライアントが出展しているイベントに出向いても、手当等は出なかった。こんな会社にいつまでも居ては人格が破壊されるから、ここでの転職は渡りに舟だった。
それにしても心残りなのは、郁子さんのことである。実は角館には、郁子さんを探す最後の手掛かりが残されていた。それは郁子さんとの会話にあった。
私は最後にもう一度だけ、角館を訪れようと思った。
(16日の最終回につづく)
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