思ってばかりいては前に少しも進まない。歩を進めて、とはいえ、これといって街道筋が街中には残っていない。古い佇まいも残っていない。それで、それなりに中津口まで歩くわけだが、本通りを歩かず狭い通りに沿って足立山を目指して歩こう。
中津口に着く。正面を高速道路が横切る。その下を少し左斜めに通る道がある。それが街道である。小倉城下の場末でもある。宇佐町というのだが、ここも大分県宇佐市の宇佐から取られたものかもしれぬ。中津の次は宇佐であるからだ。
この近くには神獄川が流れているが、現在の川筋ではない。今では考えられないことではあるが、大雨になるとよく川の水が溢れ、あたりは水浸しになっていたらしい。これが昭和の始めの頃だったらしいので、昔日にあってはどうであったろう。道はぬかるみ、歩くに困難をきたしたのではなかろうか。
少しここより外れるが、赤坂なる地がある。ここの道は赤土で、しかも坂道である。それでその名がついたのだが、それこそ雨の日はたいへんだったであろう。
赤坂なる地名の由来はもう一つ聞き及んでいるが、小倉の小笠原藩が明治維新を迎える前に、藩士たち大勢の血が流れたからだともいわれている。これはおそらく後日談であろう。
中津口に着く。正面を高速道路が横切る。その下を少し左斜めに通る道がある。それが街道である。小倉城下の場末でもある。宇佐町というのだが、ここも大分県宇佐市の宇佐から取られたものかもしれぬ。中津の次は宇佐であるからだ。
この近くには神獄川が流れているが、現在の川筋ではない。今では考えられないことではあるが、大雨になるとよく川の水が溢れ、あたりは水浸しになっていたらしい。これが昭和の始めの頃だったらしいので、昔日にあってはどうであったろう。道はぬかるみ、歩くに困難をきたしたのではなかろうか。
少しここより外れるが、赤坂なる地がある。ここの道は赤土で、しかも坂道である。それでその名がついたのだが、それこそ雨の日はたいへんだったであろう。
赤坂なる地名の由来はもう一つ聞き及んでいるが、小倉の小笠原藩が明治維新を迎える前に、藩士たち大勢の血が流れたからだともいわれている。これはおそらく後日談であろう。