さて、少し先を歩こう。宇佐町の筋には古い佇まいは残っていないが、街道筋であろう流れはなんとか道なりに残っている。両側から迫る建物が、道の緩やかな曲がりが それとなくその雰囲気を醸し出している。その雰囲気を辿りつつ、足原より黒原にでる。
大里より赤坂を抜け、広寿山の前を通ってきた大分脇道との合流点である。
大分脇道は、小倉城下町を通らず、中津に到る道である。バイパスといっていいのかもしれないが、勅使の宇佐への道でもあったらしく、かなり整備されていたようである。
街道としての姿は殆ど残っていないのだが、山門町公園前にそのことを伝える板書が立っている。
黒原から湯川までは街道などと言われるものは何処にも無いといっていい。広い道がどんと走っている。40年位前ではあるが、街道は山裾に沿って残っていた。その道は竹やぶや、雑木林がトンネルを作り、昼でも薄暗かったことを記憶している。一息つくところまで来るとそこにはひなびた茶店のようなものがあった。(写真:建設省九州地方建設局北九州の五街道を往く より)
大里より赤坂を抜け、広寿山の前を通ってきた大分脇道との合流点である。
大分脇道は、小倉城下町を通らず、中津に到る道である。バイパスといっていいのかもしれないが、勅使の宇佐への道でもあったらしく、かなり整備されていたようである。
街道としての姿は殆ど残っていないのだが、山門町公園前にそのことを伝える板書が立っている。
黒原から湯川までは街道などと言われるものは何処にも無いといっていい。広い道がどんと走っている。40年位前ではあるが、街道は山裾に沿って残っていた。その道は竹やぶや、雑木林がトンネルを作り、昼でも薄暗かったことを記憶している。一息つくところまで来るとそこにはひなびた茶店のようなものがあった。(写真:建設省九州地方建設局北九州の五街道を往く より)