仲哀天皇は西暦200年2月に崩御したことになっている。紆余曲折があって葬られるまでに相当な時間がかかっている。陵は河内恵賀の長江(岡ミサンザイ古墳?)と云われている。(記紀による)
大分宮由緒記の後半を読んでいただいて違和感を抱いた読者諸氏は多いのではなかろうか。由緒記後半と記紀はまったくもって異なるのである。まだ読まれてない方がおられるなら今のうちに読んでいただきたい。
神功皇后は「ショウケ越」を越え、「大分(だいぶ)」「稲築」「田河伊田」「香春」「豊津」「豊前」 恐らくこのルートで 宇島、中津 この付近から船出をしたであろう。
(なぜこのようなルートが推測出来るのかと言えば、地元に伝わる神功皇后の足跡を辿ることが出来るからである。「お腰掛」という言葉を聞いたことがあると思うが)
船出をしたときに「仲哀天皇の遺骸」を納めて都に向ったのであろうか。「記紀」によれば、「天皇の遺骸」は豊浦宮に安置されている。なのになぜ陸路をとり逆の方向に向ったのか。
大分宮由緒記の後半を読んでいただいて違和感を抱いた読者諸氏は多いのではなかろうか。由緒記後半と記紀はまったくもって異なるのである。まだ読まれてない方がおられるなら今のうちに読んでいただきたい。
神功皇后は「ショウケ越」を越え、「大分(だいぶ)」「稲築」「田河伊田」「香春」「豊津」「豊前」 恐らくこのルートで 宇島、中津 この付近から船出をしたであろう。
(なぜこのようなルートが推測出来るのかと言えば、地元に伝わる神功皇后の足跡を辿ることが出来るからである。「お腰掛」という言葉を聞いたことがあると思うが)
船出をしたときに「仲哀天皇の遺骸」を納めて都に向ったのであろうか。「記紀」によれば、「天皇の遺骸」は豊浦宮に安置されている。なのになぜ陸路をとり逆の方向に向ったのか。
歴史好きな読者諸氏は勿論のこと、あるいはそうではない読者諸氏でさえも倭武尊(日本武尊)は存知よりで、知らないと言う人はまずいない。仲哀天皇は尊の第二子で、息子が居なかった第13代成務天皇の後継として皇太子となり、第14代仲哀天皇が誕生する。
穴門の豊浦宮(下関長府)筑紫の訶志比宮(福岡県香椎)を宮とし、天の下を治めしめすのである。
何故、仲哀天皇が取りざたされるのか。それは天皇の皇后があまりにも有名だからである。これも知らない人はいないだろう。言わずもがな 神功皇后 である。(とある神社では皇后を神として祀っているのにもかかわらず「神宮」皇后と記してあるのだ。馬鹿な神社(神社ではなくそこの人間が馬鹿だ)があったもので呆れてしまった。本当は神社ではなく、すごく格式の高い神宮なのだがな。あまりにも情けない。)
今風に言えば、彼は素晴しい奥さんを娶ったことだ。それが彼の功績だった。奥さんは神がかりするくらい霊的、或いはシャーマン的能力の持ち主だったのである。
そのことが判明したにもかかわらず、彼は奥さんの言うことを聞かなかったのである。
それが原因となったのかは彼にしか判らないのだが、その翌日に死んでしまったのである。早死にしてしまったわけだ。
ところが奥さんがあまりにも多忙だったので葬儀を出す暇も無かったのである。豊浦宮で1年2年、殯宮に安置され、ほったらかしにされることになったのである。
奥さんはすごいぞ。朝鮮半島に出向き三韓を征伐してしまい倭の勢力化に取り込むことに成功するのだ。とって返して同年12月14日 宇美で応神天皇を産むのである。
そして翌年2月「ショウケ越」を越えて「大分(だいぶ)」に到着。暫くここに留まり政務を執るのである。ここまで言葉は乱暴ではあるが、由緒記にそくして書いてみた。
<続く>
穴門の豊浦宮(下関長府)筑紫の訶志比宮(福岡県香椎)を宮とし、天の下を治めしめすのである。
何故、仲哀天皇が取りざたされるのか。それは天皇の皇后があまりにも有名だからである。これも知らない人はいないだろう。言わずもがな 神功皇后 である。(とある神社では皇后を神として祀っているのにもかかわらず「神宮」皇后と記してあるのだ。馬鹿な神社(神社ではなくそこの人間が馬鹿だ)があったもので呆れてしまった。本当は神社ではなく、すごく格式の高い神宮なのだがな。あまりにも情けない。)
今風に言えば、彼は素晴しい奥さんを娶ったことだ。それが彼の功績だった。奥さんは神がかりするくらい霊的、或いはシャーマン的能力の持ち主だったのである。
そのことが判明したにもかかわらず、彼は奥さんの言うことを聞かなかったのである。
それが原因となったのかは彼にしか判らないのだが、その翌日に死んでしまったのである。早死にしてしまったわけだ。
ところが奥さんがあまりにも多忙だったので葬儀を出す暇も無かったのである。豊浦宮で1年2年、殯宮に安置され、ほったらかしにされることになったのである。
奥さんはすごいぞ。朝鮮半島に出向き三韓を征伐してしまい倭の勢力化に取り込むことに成功するのだ。とって返して同年12月14日 宇美で応神天皇を産むのである。
そして翌年2月「ショウケ越」を越えて「大分(だいぶ)」に到着。暫くここに留まり政務を執るのである。ここまで言葉は乱暴ではあるが、由緒記にそくして書いてみた。
<続く>