村上春樹 1987年 講談社(上下巻)
なんでも映画化されたということで、最近また名前をきくことが多くなったんで、ひさしぶりに読んでみた。
出版された当時は、店頭に並んだらすぐ買って読んだんだけど、正直そんなにおもしろいとも思わなかった。
私は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が好きなんで、長編だとそういうのを期待してたから。
登場人物には名前がちゃんとついてるし、おかしなものも出てこないんで、いつもの独自のワールドぢゃないなー、なんだフツーの小説じゃんか、って感じ。
いま読んでも、それは変わらない。やっぱ、羊男とか、やみくろとか、TVピープルとか、空気さなぎとか、何を意味してるんだろうっていうヘンなものが出てくるのが村上作品だと思ってるから、妙にリアルなことばっか書いてるのが、らしくない。らしくないってことは、あんまり魅力的ではない。
20年以上前にたぶん私がそんな感想を持ってるあいだにも、意外にも本はバンバンと売れちゃって、大ベストセラーになっちゃった。
当然、私としては「世界の終わりのほうが面白いのに」って、ちょっとおもしろくなく思ってた。
ごたぶんにもれず、小説とか音楽とかって、自分のフェイバリットが、あまりにメジャーになりすぎると、喜ばしいのに素直に喜ばないんである、私も。(私もって、世間一般のひともそうぢゃないかと勝手に想像して言ってますが。)
だから、この後くらいからかな、好きな作家を訊かれると小林恭二の名前を先に出すようになったのは。(べつに小林恭二がマイナーだとは言ってない。)
んで。
ストーリーもあんまり愉快な話でもないし、それまでの村上春樹の小説は何回も何回も読んでたんだけど、それに比べてこの本は、その後全然読んでない。今回読んだのは、ほんとに二十三年ぶりかもしれない。(さすがにそれはないか。)
なんか深く気持ちが沈んぢゃう可能性あるんで、毎日寝る前にちょっとずつとか、通勤電車のなかでとか、そんな読み方する本ぢゃないんだよな、確か、って思って、まとまった時間がとれる休みの日とかを待ってた。
なんで、暮れの29日から30日にかけて、読んだ。29日の夕方5時くらいから、やおら、ふだん読めない本でも読むかーって気になって読み始め、途中夕食休憩を挟んで、酒も飲み始めちゃったけど、9時すぎくらいに下巻の最初まで入ったとこで、眠くなって寝ちゃった。朝方3時ころに目が覚めちゃって(酒飲んで寝ると意外と熟睡できないもの)、眠れなくて仕方ないから、それから5時過ぎまで、残りを読んだ。
ギューッと読んだって感じ、面白くないとか文句言ってるようだけど、実際こういうふうに読まさせてくれる作家はそうはいない。
20年前にどう思ったか細かいことは忘れちゃったけど、いま読んで感ずるところがないわけぢゃない。それはその間に私もトシをとったからってのもあるだろう。
冒頭おどろいたのは、語り部の「僕」が三十七歳って書いてあって、それはたぶん村上春樹の当時の歳なんだろうけど、うわぁ俺はそのトシをもう超えちゃったのかぁ!ってこと。
そりゃいつかは超すに決まってんだけど、なんか若いころに触れた文学とか音楽とかって、年上から与えられたものみたいな受け取りかたがあるんで、自分がそのトシ超えちゃうというのは、なんかヘンな感覚。
で、物語は主人公がだいたい19からハタチくらいのときのことなんだけど、読んだ当時は私もハタチくらいだったわけで、でも時代が違うからか、別に登場人物たちに必要以上に同世代的なシンパシーみたいのはなかったはず。いま読んでも、ハタチのころ恋愛とかについてどう考えてたっけ、って遠い昔のことは思い出せない。
今回ひさしぶりに読んでみて、やっぱ特に感想はなし。よくマメに手紙を書くなぁ、とか思うけど。
友人の彼女との関係を説明できなくて、「複雑な事情があるんです」って主人公が答えるとことかに、誰にも複雑な事情はあるもんだよなーとか妙に感じ入っちゃったりして。
それにしても何にしても、小説を読むこと自体は、非常に楽しかった。ひさしぶりに順を追って長編をまた読み返してみよっかなーと思った。これの次、なんだっけ?「ダンス・ダンス・ダンス」? やばいな、いま本棚をサッと見たら、無い。どこやっちゃったんだろう。(売るわけないはずなんだけど、村上春樹は…。)
しかし、これホントに原作に忠実に映画化したんだろうか。
「雨にうたれた猿のように疲れているの」みたいなセリフ、村上春樹自身が語るように、小説のなかには小説のなかだけの会話のリズムがあって、実際に口に出して言うものでもないと思うんだけど。
なんでも映画化されたということで、最近また名前をきくことが多くなったんで、ひさしぶりに読んでみた。
出版された当時は、店頭に並んだらすぐ買って読んだんだけど、正直そんなにおもしろいとも思わなかった。
私は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が好きなんで、長編だとそういうのを期待してたから。
登場人物には名前がちゃんとついてるし、おかしなものも出てこないんで、いつもの独自のワールドぢゃないなー、なんだフツーの小説じゃんか、って感じ。
いま読んでも、それは変わらない。やっぱ、羊男とか、やみくろとか、TVピープルとか、空気さなぎとか、何を意味してるんだろうっていうヘンなものが出てくるのが村上作品だと思ってるから、妙にリアルなことばっか書いてるのが、らしくない。らしくないってことは、あんまり魅力的ではない。
20年以上前にたぶん私がそんな感想を持ってるあいだにも、意外にも本はバンバンと売れちゃって、大ベストセラーになっちゃった。
当然、私としては「世界の終わりのほうが面白いのに」って、ちょっとおもしろくなく思ってた。
ごたぶんにもれず、小説とか音楽とかって、自分のフェイバリットが、あまりにメジャーになりすぎると、喜ばしいのに素直に喜ばないんである、私も。(私もって、世間一般のひともそうぢゃないかと勝手に想像して言ってますが。)
だから、この後くらいからかな、好きな作家を訊かれると小林恭二の名前を先に出すようになったのは。(べつに小林恭二がマイナーだとは言ってない。)
んで。
ストーリーもあんまり愉快な話でもないし、それまでの村上春樹の小説は何回も何回も読んでたんだけど、それに比べてこの本は、その後全然読んでない。今回読んだのは、ほんとに二十三年ぶりかもしれない。(さすがにそれはないか。)
なんか深く気持ちが沈んぢゃう可能性あるんで、毎日寝る前にちょっとずつとか、通勤電車のなかでとか、そんな読み方する本ぢゃないんだよな、確か、って思って、まとまった時間がとれる休みの日とかを待ってた。
なんで、暮れの29日から30日にかけて、読んだ。29日の夕方5時くらいから、やおら、ふだん読めない本でも読むかーって気になって読み始め、途中夕食休憩を挟んで、酒も飲み始めちゃったけど、9時すぎくらいに下巻の最初まで入ったとこで、眠くなって寝ちゃった。朝方3時ころに目が覚めちゃって(酒飲んで寝ると意外と熟睡できないもの)、眠れなくて仕方ないから、それから5時過ぎまで、残りを読んだ。
ギューッと読んだって感じ、面白くないとか文句言ってるようだけど、実際こういうふうに読まさせてくれる作家はそうはいない。
20年前にどう思ったか細かいことは忘れちゃったけど、いま読んで感ずるところがないわけぢゃない。それはその間に私もトシをとったからってのもあるだろう。
冒頭おどろいたのは、語り部の「僕」が三十七歳って書いてあって、それはたぶん村上春樹の当時の歳なんだろうけど、うわぁ俺はそのトシをもう超えちゃったのかぁ!ってこと。
そりゃいつかは超すに決まってんだけど、なんか若いころに触れた文学とか音楽とかって、年上から与えられたものみたいな受け取りかたがあるんで、自分がそのトシ超えちゃうというのは、なんかヘンな感覚。
で、物語は主人公がだいたい19からハタチくらいのときのことなんだけど、読んだ当時は私もハタチくらいだったわけで、でも時代が違うからか、別に登場人物たちに必要以上に同世代的なシンパシーみたいのはなかったはず。いま読んでも、ハタチのころ恋愛とかについてどう考えてたっけ、って遠い昔のことは思い出せない。
今回ひさしぶりに読んでみて、やっぱ特に感想はなし。よくマメに手紙を書くなぁ、とか思うけど。
友人の彼女との関係を説明できなくて、「複雑な事情があるんです」って主人公が答えるとことかに、誰にも複雑な事情はあるもんだよなーとか妙に感じ入っちゃったりして。
それにしても何にしても、小説を読むこと自体は、非常に楽しかった。ひさしぶりに順を追って長編をまた読み返してみよっかなーと思った。これの次、なんだっけ?「ダンス・ダンス・ダンス」? やばいな、いま本棚をサッと見たら、無い。どこやっちゃったんだろう。(売るわけないはずなんだけど、村上春樹は…。)
しかし、これホントに原作に忠実に映画化したんだろうか。
「雨にうたれた猿のように疲れているの」みたいなセリフ、村上春樹自身が語るように、小説のなかには小説のなかだけの会話のリズムがあって、実際に口に出して言うものでもないと思うんだけど。
