かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

星加ルミ子さんのトークイベント

2016年07月22日 | The Beatles

今日は、星加ルミ子さんの、トークイベントに行った。
前回の6回シリーズでは、5回行ったが、好評につき、さらに6回開催されることになり、今回は、その1回目。



音楽プロデューサーの、新田和長さんが、ゲストだったが、目から、鱗の話満載だった。
レコード・コレクターズの、先月号と、今月号にも、インタビュー記事が、載っているそうなので、詳細は、そちらでどうぞ。

新田さんが、東芝音工に入ったのは、1969年。
先日お話を聞いた高島さんが、上司だったという。
新田さんは、学生時代、ザリガニーズで、ヒットを、出しており、こんどは、キャピトルでと思っていたら、エクスプレスをいうマイナーレーベルで、出さされて、このレーベルを、育ててみろと、言われたそうだ。

ビートルズ関連の最初の仕事は、アビーロードの、テープの、タイム計測だったという。
I Want You の、音が、最後まで、頭の中で、渦巻いていたことと、Her Majestyまでの、間隔が、あきすぎていて、音の消し忘れではないかと思ったとのこと。
日本で、最初に、アビーロードを、聴いた人かもしれない。

そして、東芝で、プロデューサーをやる中で、ジョージ・マーティンの、唯一の日本人の弟子になった。
それが、半端じゃない。

見学に誘われ、LAのスタジオを訪れたり。
彼の指導法は、サジェスチョンはするけど、基本的には、アーティストの意見を尊重するだったという。

モンセラト島の、スタジオをクローズするとき、機材一式を、4000万円で、譲ってもらったのだそうだ。
当時、ロンドンと、LAにしかない、最高級の機材だったという。
ジョージ・マーチンと、新スタジオの場所を探して、日本中駆け回り、結局、彼が、札幌近郊に決めたのだという。
バブルの影響で、人手に渡ったが、今も現役。ただし、13億で建設したが、バブル崩壊で、価値は、1/10になってしまったというから、凄い。

ジョージとの話では、ミッシェルのベースラインを、ポールに提案した話が、印象深い。
Let It Beのテープを、ジョンが、勝手に、フィルに、渡してしまったことは、苦々しく思っていたという。
そういった意味では、ポール寄りだったということだろう。
イエスタデイに、弦楽カルテットを使うことに、最後まで、ポールは、いやがっていたというが。

そう言えば、新田さんは、ポールの、前で、ブラックバードを演奏したこともあるという。
1970年代のことだ。

ジョージ・マーティンさんのお別れの会に、日本人で、唯一招待されたのも、新田さん。
最初の32分は、オーケストラ中心のおごそかなもので、後半の1時間半は、お祭り騒ぎだったという。
もちろん、ポールが、ゲストでは、主役。
ヨーコさんや、エルトン(遅刻)も、列席。
息子のジャイルズが企画したのではとおっしゃっていた。

2年前にもジョージ・マーチンお会いになっており、1人で、歩けない体で、わざわざ、アビーロードスタジオまで、来てくれたという。
紳士中の、紳士だったそうだ。

新田さんは、日本のプロデューサーだから、プロデュースしたのは、邦楽になるが、チューリップ、、赤い鳥、甲斐バンドなどを育てた。
チューリップのデビューアルバムのインサートのコメントを、星加さんにお願いしたのが、新田さんと星加さんの、出会いだったらしい。
吉田拓郎からは、Bad Boysを、紹介され、Meet The Bad Boysを、プロデュースしたそうだ。
サディスティクミカバンドを、クリストーマスに、プロデュースさせたのも、新田さん。
クリストーマスは、ホワイトアルバム制作の際、ジョージマーティンが、呆れて休暇をとってしまった際、代役プロデューサーを務めた人だ。

とにかく、凄い経歴の持ち主。



そして、最後に、取り出されたのが、なんと、アビーロードスタジオで、4人が、8年間使用したマイク。
1963年に、ジョージマーティンから、特製飾り台まで、つけてもらい、寄贈されたものだそうだ。こんな、お宝が、日本人の手元にあるだけでも、凄い。



ジョージマーティンと、北海道の、スタジオで、、一度だけ、使用したという。

いやあ、こんな話が聞けるとは、思わなかった。



たまたま、昨年夏リバプールに行って、ゲットしたTシャツがこれ。
まさか、その現物を目の前にするとは。

コメント
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