かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

江戸のビジネスを考える

2019年02月13日 | Culture・Arts
今日は、高校の先輩の講演に行ってきた。

題目は、江戸のビジネスを考える。
江戸時代の江戸に焦点を当てて、人々の暮らしぶりを深堀りする。

庶民の生活というのは、なかなか記録に残らないものだが、当時も、もの好きがいたようで、いろんな形で記録が残っていて、それをつなぎ合わせると姿が浮き上がってくる。

江戸時代は、対外戦争、内戦がなく、ビジネスが発展する環境に恵まれていた。
特に、武士は、農民からは搾取したものの、工・商からは、持ちつ持たれつの関係を保ったため、ビジネスの発展できる時代だった。

そのなかで、ビッグビジネスは、大店(おおだな)というビジネスで、呉服屋が多店舗を持ち、ビジネスを拡大した。
そのサイズは、他とは桁違いで、今の商店の規模と比しても巨大なものであった。
それを核とした街は、家守(やもり)が統率していた、それは、ビジネスの元締めでもあり、不動産管理人でもあり、治安を維持する政府の手先のような役目を負っていた。
たしかにそのような機能がなければ、あれだけ、江戸時代が平和に長く続くことはなかったかもしれない。

当時のビジネスの形態は、まさに様々で、ピンからキリまで。
ただ、お話を聞く限り、よくこれで生活できていたなというレベルのビジネスも多い(ビジネスと言ってもほとんど乞食?)。
一方、15歳以下、50歳以上の人には、そういったビジネスを行えるライセンスが無償で付与されたという。
一般の人も、一定の額を払えば、そういったビジネスを展開することができた。
ちなみに、長屋の家賃は、建築費の1/6だったのだという。
6年償却とは、短い感じもするが、家屋の質、火事が多かったことを考慮すると、妥当だったのだろう。

講演会で、披露された日本橋の絵図は、ベルリンで発見されたものだが、三越がいかに巨大であったか、家守の存在、他の商店はほとんど2間であること、物見台が設置され、火事への備えが重要であったことが見てとれる。
誰がどのような目的で作ったものかはわからないそうだが、その直後、大火で焼けてしまったこともあり、貴重な記録になっている。

古代史中心に探訪を続けているが、江戸時代も面白い。
江戸の庶民の街を作ったのは、関西商人だそうだが、どのような気持ちで、江戸の街づくりに貢献したのだろうか。

興味は尽きない。
コメント
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