横浜開港150周年(2009年)に向け、いろんなプロジェクトが進行していることは、何度か触れた。
今から、150年以上前、アメリカのペリーが浦賀に来航し(黒船!)、横浜で、日米和親条約を結んでから、開国の話が加速度的に進んだ。それまでは、ずぅっと長い間、鎖国していたのだから、とってもすごいことだったのだろう。そのペリーの像が、横浜にないというのは、先日の”よこはま検定”で初めて知った。日米和親条約記念碑(上の写真)は、あるのだが。
そのペリーの碑を150周年を記念して、横浜に作ろうという話があるようだ。
先日何かの番組で、ペリーの子孫の方が横浜に来て、ペリーが、こんなに有名だということに驚いた様子だった。子孫の方には、ペリーは、単なる米海軍の隊長で、日本の歴史にこんなに大きな影響を与えていたという認識が薄かったのだと思う。ペリーが、日本で、よく思われているのか、悪く思われているのかも、わからなかったのかも知れない。
一方、その時の江戸幕府の受け手は、大老の井伊直弼(厳密には、日米修好通商条約の時)。とにかく、開国した。安政の大獄で、攘夷派を弾圧するため強権を発動したが、桜田門外の変で、暗殺された。そのやり方には、賛否あろうが、日本の考えだけでは変えられない時代の流れは、見えていたか、感じていたのだろう。
その井伊直弼の像は、横浜のみなとみらい地区を見下ろす、掃部山(かもんやま)公園にある。この掃部山というのは、井伊直弼の名が、彦根藩主になった時の名である掃部頭(かもんのかみ)で、そこから名づけられたものだ。そして、この像は、元藩士らによって、作られたというところまでは知っていた。
とある記事で知ったのは、この像が、開港50周年に、作られたことと、同じ、開港50周年の時、ペリーの像を作るという話があったが、当時の日米関係の悪化で、そのアイデアは外務省の賛成が得られず、ぽしゃったということだ。
そう聞くと、一応平和で、日米関係も比較的良好なこのタイミングで、ペリーさんの像を横浜にという気持ちにもなってくる。