年末年始に、各紙で民主主義を取り上げたものが、目によくともったような気が致します。(気がついた記事は、下記にまとめてみます。)
民主主義の難しさをあらためて考えさせられました。
民主主義を、これからも続けていくために最も大事なことは、単純だけれど、おかしな世の中の問題に対して、一人ひとりが「言うべきことを言うこと」だと思います。
その際、
〇健全なジャーナリズム
〇適切に保管・管理された公文書の公開・開示
〇学問の自由が保障された大学の研究成果
などを根拠にするなら、忖度の問題も生じることなく「言うべきことを言う」ことに繋がるのではないでしょうか。
そのように意見を述べるひとが多いにこしたことはありませんが、それぞれの場所・機関において、100人に1人でも居てくれるなら、日本の民主主義は続くと思います。
もちろん、芸能人もスポーツ選手も、「炭鉱のカナリア」たるべく、臆することなく、おかしいことは、おかしいと言ってほしいです。
アーティストの技・演技と、政治的主張や考え方は、あくまで別物です。
例えば、テレビ放送においては、政治的主張を述べたから、公共の電波から排除させると言う力はスポンサーにはないのではないかと考えます。もちろん、スポンサーにもスポンサーをやめる自由はあります。それに対し、私たちには、そのようなスポンサーを選ばない自由があります(他を選択するのが難しい場合はありますが)。
(参考:民主主義の難しさを論じた記事 特にその箇所のみ抜粋)
毎日新聞2019.01.01社説 https://mainichi.jp/articles/20190101/ddm/003/070/027000c
抜粋:私たちはこれまでAIに対し無防備過ぎたかもしれない。ギリシャの歴史家は放縦な民主制が衆愚制や独裁制に移る「政体循環論」を説いたが、AIが「ポスト民主主義」の引き金を引くシナリオは悪夢だろう。議論をする。互いを認め合う。結論を受け入れる。リアルな肌触りを省いたら民主主義は後退する。
日本経済新聞2019.01.04 経済教室 平成の終わりに(1) 「知性の断片化」の危機回避を 猪木武徳 大阪大学名誉教授 https://www.nikkei.com/article/DGXKZO39528760Y8A221C1KE8000/
抜粋:さらにもう一つの共通点として、両者とも人々をバラバラにして社会の連携を弱めるという性格がある。デモクラシーは、人々をアトム化し、公共的なものへの関心を弱め、自分と家族という私的世界に引きこもらせる傾向を持つ。その結果、公的な徳が枯れ、「裸の利己主義」がまん延しやすくなる。
こうした社会を生み出す傾向を持つデモクラシーは、それが高い価値として掲げる「自由と平等」とは全く逆の価値、すなわち「専制と不平等」を生み出す危険性をはらむ。それを阻むには、地方自治が重要な役割を担わねばならない。だが日本では地域社会という身近なところから、自分たちで物事を決めていくという精神は十分成熟しているのだろうか。
毎日新聞2019.1.11 論点:民主主義の行方 インタビュー ノーム・チョムスキー アリゾナ大教授(言語学) https://mainichi.jp/articles/20190111/ddm/004/070/019000c
抜粋:富の集中は民主主義の機能を弱らせる。なぜなら、経済力を持つ者が政府の政策決定を左右する影響力を及ぼすようになるからだ。そうなると、市民たちは「政府はもはや自分たちの代表ではない」と感じるようになり、そうした不満や怒りがデマゴーグ(大衆扇動者)の台頭につながる。デマゴーグはさまざまな問題を「他人のせい」にしようとする傾向があるため、外国人や少数派に対する差別など社会の病的症状がでてくる。
--今後、民主主義はどうなりますか。
分からない。ムソリーニに投獄されたイタリアの思想家アントニオ・グラムシ(1891~1937年)はファシズムが台頭した1930年代、「古い体制が崩壊し、新しい体制がまだ形づくられていない。その空白期に多くの病的な兆候が表れる」と獄中で書いた。私はあの不快な時代を覚えている。今と似ている。