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********東京新聞*************
https://www.tokyo-np.co.jp/article/79176
大学とは、何よりも「学問」をする場所です。
日本の大学設立の目的は国力強化でした。それなら実践的な内容を扱う「専門学校」をたくさんつくればよかったのに、つくったのは学問を掲げる「大学」というものでした。私はそれに救いを感じます。源氏物語に、国を治めるなら学問をした人間であるべきだ、という一節があるように、古くから学問の重要性が認識されていたからでしょう。
ではその学問とは何で、大学とは何か。学問とは食うこと、つまり生きることとは何かを考えることであり、大学とは食うことを心配しないでその問いを持つことができ、果ての果てまで考え、対話するところです。どんな専門であろうがそれは入り口でしかなく、最終的に行き着くところ、自分自身の存在について考えることです。
しかし、今や大学自体も食うことばかりを考えている時代。国立大では独立行政法人化が転換点でがらっと変わりました。かつては産学連携に反対するデモが起きたそうですが、今はどれだけ民間などからお金を引っ張るかが最優先事項です。そのためには時代を読んで、課題解決に資する研究が必要だと。
もちろん不都合を解消することは大事です。しかしそれは子どもでも言えること。なぜその課題が存在するのかを考えないと、本当の課題解決にはつながりません。時代という同じ流れに乗っていたら流れは見えない。見るためには時代を離れないと。それこそが普遍、学問がやるべき仕事なのです。
具体的にどう学問するか。私が在籍する学際融合教育研究推進センターがやっている「京大100人論文」はその一例。研究者百人が生涯追い続けたい研究テーマをポスター発表のように掲示。これに参加者が付箋に匿名でコメントする。匿名だからこそ参加者同士がピュアに意見を交換することができる。そうして自分たちの興味・関心を互いに磨き合うのです。
日本学術会議の問題では多くの学会が抗議声明を出しました。闘うのは当然とする一方、大学人は本当に社会に響く仕事をしていたかを自らに問う必要があります。それは決して役立つもののことではありません。真の学問だけが持っている言葉にならない迫力を示すこと。今こそ大学の本分である学問に帰るべきだと思います。(聞き手・大森雅弥)
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