「中央区を、子育て日本一の区へ」こども元気クリニック・病児保育室  小児科医 小坂和輝のblog

感染を制御しつつ、子ども達の学び・育ちの環境づくりをして行きましょう!病児保育も鋭意実施中。子ども達に健康への気づきを。

「世の中を読む手法を教えてください」と問われたら、どう答えるか。過去の若輩小坂が、答えていたことに驚いたので再掲。

2024-04-11 17:27:05 | 書評

 2007年(平成19年)に自分が書いた文章。

 書いたことさえ覚えてないけど、『社会認識の歩み』を手にとった覚えはあります。

****自分の過去のブログ 2007-09-09 18:33:27 | シチズンシップ教育 ***

 https://blog.goo.ne.jp/kodomogenki/e/32627b75a9a9f6a8622d4e7c58852701

「世の中を読む」(難しくいうと「社会認識」)ことを、だれもが、うまくしたいと思っている。
 うまく「世の中を読む」方法は、次の3つのステップを踏むこと。


【ステップ1】自分を賭ける=主体の自覚
 知らず知らず、皆さんは行動する時、選択をしている。無意識にしているので、感じないかもしれないが、どちらかの行動を選ぶにあたって、「賭け」をしているわけである。
 「賭け」ている自分に気づくと、だれでもその賭けに負けたくはないわけで、そのために事実の客観的な認識をするであろう。事実の情報収集などをして、事実の客観的な認識後、賭ける先を決めて生きていくのである。賭けると考えると、事物の客観的認識が、自分の問題として迫ってくるのではないか。社会認識の歩みの第一歩がこうして始まる。
 「賭けている自分」の自覚こそ、主体的に生きている自分を自覚することである。
 ダンテが言うが人間の最低の条件は、「自分の責任において自分の行動をきめること」であり、主体的に生きることを意味する。
 
 ちなみに、マキアヴェリの『君主論』によると、人は、運命に縛られ、支配されている。どうあがいても、運命の定めから抜け出せ得ない。うまく生きていけるかは、たまたま運命が幸運であったからであり、運命は、人間に絶えず襲い掛かってくる存在なのである。しかし、自身の努力で、運命を切り開くことが、出来る部分もある。人生の、運命に定められている部分が半分で、運命を切り開くことができる部分が、半分の割合である。自分を賭けたら、果敢に行動し、運命を切り開いて行くことをマキアヴェリは強調している。

【ステップ2】制度を疑え!=主体の自覚の深まり(空間的認識の広がりへ)
 次のステップは、ある決められて制度の中で、主体的に考えていた存在から、制度そのものを作り直す主体になっていくことである。
 制度で決まっているからという分析から、なぜ、そういう制度があるのか?と考え、必要であれば、制度のあるべき姿を再提案していくのである。
 今やいけないことであるが、国家とか制度が自己目的化されて、人間が手段化されがちである。制度やルールの存在根拠を人間の側で問うて行くことがなければ、社会科学は生きてこない。ホッブスが、「挙証責任の所在の転換」をもたらした点は、すなわち、制度の存在理由を証明するのは、制度をつくった側にあるとしたことは、非常に意義深い。
  ちなみに、マキアヴェリの『君主論』の書き方は、統治者が民衆とは別に始めからあるという前提から始まっているため、制度ありきなのである。

【ステップ3】歴史を発掘しろ!=時の流れに埋もれない(時間的認識の広がりへ)
 最後のステップとして、社会が歴史的存在であるということを認識する必要がある。気づかないうちに主体も客体も時の流れに埋もれてしまうものである。埋もれることなく歴史から抜け出して歴史を省りみるという主体の側での行為を契機にして、歴史的存在として社会認識できるようになる。
 特に日本人は、個体という概念が希薄な上、「自(おのず)から然(しか)る」という風に「宿命的歴史感」を自然に有しているため、社会科学も育ちにくかった。
 「歴史的事象の始原の探求」をすることで、社会科学の「時間的考察」ができるようになる。大胆に、歴史の中から、ある歴史事象の始原(始まり)を発掘するのである。

 例えば、
①社会科学の結節点をあげ、ヨーロッパ学問史の始原を抜き出すとすれば、

マキアヴェリ(1469、イタリア)『君主論』

(約1世紀後)
ホッブス(1585、英)『リヴアイアサン』
(汝自身を知れ:自分を知ることで、自然状態の人間の心を知る。その集合として一つの意志をもった国家形成がなされている。人間の研究から、国家研究が始まるとした。)

(約1世紀後)
ルソー(1712、仏)『社会契約論』『人間不平等起源論』
(ホッブズの想定した自然人は私有財産制により、実は想定できないとした。利己心と自愛心。)
アダム・スミス(1723、英)『国富論』(ルソー批判とホッブスへの回帰)
(利己心は自己への関心であり、人間の普通に持つ本性である。同じ利己心をもつとして、他人への同感、共感を人間は持ち、一定の制度のうえでは、利己的行動が社会的善につながる。)

<<この18世紀中葉にヨーロッパ学問史の始原がある!!>>

(約1世紀後)
マルクス(1818、独)『資本論』



②日本で言う「市民社会」の始原は?
太平洋戦争中にある。



③太平洋戦争の始原は?
家永三郎氏によると、
柳条湖事件か?
盧溝橋事件か?
ハワイ空襲か?


以上。

 三つのステップを行い、多くの人に「世の中をうまく読んでいただきたい」(社会的認識の歩みをしていただきたい)と思う。

 今や、学問といえば、管理の学となる時代、それに埋もれることなく、多くの人が社会認識の歩みができるのであれば、必ずや人間が人間らしく生きる社会の実現ができると信じる。

 それにしても、大学時代に上記代表作は、読んでおくべきだったと後悔している。

『社会認識の歩み』(内田義彦著、岩波新書1971年第1刷発行、2006年第48冊発行)を自分なりに解釈し、メッセージ化した。





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