今日は一日東京出張。朝一番の飛行機で、帰りは最終便。絶対エア・ドゥ主義はいつまで続くでしょうか。
今日は、
■山本七平「日本人はなぜ敗れるのか」を読む の1本です。
【山本七平「日本人はなぜ敗れるのか」を読む】
朝一番の飛行機で出発して最終の飛行機で帰ってくる日帰り出張は体力的にはなかなか厳しいけれど、睡眠を上手に取ればあとは本が読めるので時間の使い方次第である。
今日も山本七平(1921~1971年)さんの本のご紹介で、今日は「日本人はなぜ敗れるのか」(角川出版 角川oneテーマ21 本体お値段781円)です。
新書版の本書の帯には「奥田碩会長が『ぜひ読むように』とトヨタ幹部に薦めた本」と書かれている。
著者の山本七平氏が戦争中を極めて客観的かつ性格に書いた記録として見いだしたのが小松真一著「虜人日記」であり、そのなかの記述に山本氏自身の戦争体験を重ね、それらの記録と記憶の中から、負けるべくして負けた先の大戦の裏面を良く著しているのである。
「虜人日記」の著者小松真一氏は軍人ではなく、陸軍専任嘱託として徴用されて、ブタノールを粗糖から製造する技術者として敗色が濃くなった昭和19年1月にフィリピンに派遣を命ぜられて、散々なる辛酸をなめて終戦を迎えたのである。
小松氏は軍に所属していながらも、軍隊という組織に組み込まれていない特殊な立場の技術者であった。
従って「組織への配慮、責任の回避、旧上官・旧部下・同期生・軍関係学校…の先輩後輩といった関係等への思惑、部下の戦死に対する釈明的虚偽や遺族のための『壮烈な戦死』という名の創作等々から全て解放されて」いる立場で書かれている。
山本七平氏が指摘するのは、この「戦後」影響が皆無の、「戦後以前」に書かれた本であり、これを読めば「われわれの常識とそれを基礎づける基本的価値判断の基準が、戦前も戦後も変わっていないことを示している」ということである。
戦前は特別な時代だったのではなく、今も全く当時と同じ物の考え方に支配されているのが我が国であるという真実なのである。
山本氏が重ねて指摘するのは「なぜその常識を基準として国も社会も動かず、常に、”世論”という名の一つの大きな虚構に動かされるのかという問題である」ということだ。
小松氏は日本軍の敗因を21箇条にまとめているが、それらは、
1、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。しかるに作戦その他で兵に要求される事は、すべて精兵でなければできない仕事ばかりであった。武器も与えずに。冷えこくは物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
…に始まり、
21、指導者に生物学的常識がなかったこと で終わる。
兵は人間であり、人間は生き物である。そのことすら指導者には分かっていなかったという痛烈な体験が虜人日記、そして本書にはつづられている。
これを読むと、まさに先の大戦とはいったい何だったのかを今の国民があまりに知らなさすぎ、断片的な回顧と美談や断片的な残酷物語だけでは語れない本質に迫ることができる思いである。
* * * *
実はこの大戦末期の様相と全く同じことには前例があって、実はそれは西郷隆盛による西南戦争だったのだという。
薩摩軍が「西郷一度立たば」として何の戦略も持ち得ないまま戦争に突入し、最後は山にこもって組織的戦いとすれば何の意味のない山中彷徨を繰り返すという愚挙に及んだことを、当時の新聞記者は不合理と断じているのである。
一体われわれは歴史から何を学ばねばならないのか。何を学んでいないのか。
日本人が飢えと死の恐怖の極限におかれたときの様を見て小松氏が挙げた敗因は、
9、克己心の欠如
10、反省力なき事
11,個人としての修養をしていない事
13、一人よがりで同情心がない事
16,思想的に徹底したものがなかった事
18、日本文化の確立なき事
20、日ノン文化に普遍性なき事
と厳しい日本人論になっている。もう一度その子孫であるわれわれはこのことを刮目して見なくてはならないだろう。
「このままでは日本は(そして日本人は)再び敗れる」という帯の文字は決して買わせるための脅しではない。
今日は、
■山本七平「日本人はなぜ敗れるのか」を読む の1本です。
【山本七平「日本人はなぜ敗れるのか」を読む】
朝一番の飛行機で出発して最終の飛行機で帰ってくる日帰り出張は体力的にはなかなか厳しいけれど、睡眠を上手に取ればあとは本が読めるので時間の使い方次第である。
今日も山本七平(1921~1971年)さんの本のご紹介で、今日は「日本人はなぜ敗れるのか」(角川出版 角川oneテーマ21 本体お値段781円)です。
新書版の本書の帯には「奥田碩会長が『ぜひ読むように』とトヨタ幹部に薦めた本」と書かれている。
著者の山本七平氏が戦争中を極めて客観的かつ性格に書いた記録として見いだしたのが小松真一著「虜人日記」であり、そのなかの記述に山本氏自身の戦争体験を重ね、それらの記録と記憶の中から、負けるべくして負けた先の大戦の裏面を良く著しているのである。
「虜人日記」の著者小松真一氏は軍人ではなく、陸軍専任嘱託として徴用されて、ブタノールを粗糖から製造する技術者として敗色が濃くなった昭和19年1月にフィリピンに派遣を命ぜられて、散々なる辛酸をなめて終戦を迎えたのである。
小松氏は軍に所属していながらも、軍隊という組織に組み込まれていない特殊な立場の技術者であった。
従って「組織への配慮、責任の回避、旧上官・旧部下・同期生・軍関係学校…の先輩後輩といった関係等への思惑、部下の戦死に対する釈明的虚偽や遺族のための『壮烈な戦死』という名の創作等々から全て解放されて」いる立場で書かれている。
山本七平氏が指摘するのは、この「戦後」影響が皆無の、「戦後以前」に書かれた本であり、これを読めば「われわれの常識とそれを基礎づける基本的価値判断の基準が、戦前も戦後も変わっていないことを示している」ということである。
戦前は特別な時代だったのではなく、今も全く当時と同じ物の考え方に支配されているのが我が国であるという真実なのである。
山本氏が重ねて指摘するのは「なぜその常識を基準として国も社会も動かず、常に、”世論”という名の一つの大きな虚構に動かされるのかという問題である」ということだ。
小松氏は日本軍の敗因を21箇条にまとめているが、それらは、
1、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。しかるに作戦その他で兵に要求される事は、すべて精兵でなければできない仕事ばかりであった。武器も与えずに。冷えこくは物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
…に始まり、
21、指導者に生物学的常識がなかったこと で終わる。
兵は人間であり、人間は生き物である。そのことすら指導者には分かっていなかったという痛烈な体験が虜人日記、そして本書にはつづられている。
これを読むと、まさに先の大戦とはいったい何だったのかを今の国民があまりに知らなさすぎ、断片的な回顧と美談や断片的な残酷物語だけでは語れない本質に迫ることができる思いである。
* * * *
実はこの大戦末期の様相と全く同じことには前例があって、実はそれは西郷隆盛による西南戦争だったのだという。
薩摩軍が「西郷一度立たば」として何の戦略も持ち得ないまま戦争に突入し、最後は山にこもって組織的戦いとすれば何の意味のない山中彷徨を繰り返すという愚挙に及んだことを、当時の新聞記者は不合理と断じているのである。
一体われわれは歴史から何を学ばねばならないのか。何を学んでいないのか。
日本人が飢えと死の恐怖の極限におかれたときの様を見て小松氏が挙げた敗因は、
9、克己心の欠如
10、反省力なき事
11,個人としての修養をしていない事
13、一人よがりで同情心がない事
16,思想的に徹底したものがなかった事
18、日本文化の確立なき事
20、日ノン文化に普遍性なき事
と厳しい日本人論になっている。もう一度その子孫であるわれわれはこのことを刮目して見なくてはならないだろう。
「このままでは日本は(そして日本人は)再び敗れる」という帯の文字は決して買わせるための脅しではない。