今月号の「致知」に、将棋の九段加藤一二三さんのインタビュー記事が載っていました。
加藤九段は、十四歳という最年少でのプロデビューを果たして、以来、棋士生活六十二年。名人位をはじめ数々のタイトルを獲得して、七十六歳の今なお現役の棋士として活躍されています。
加藤さんは子供の頃はプロ野球選手になりたいと思っていたそうです。それが小学校四年生の時に、新聞の将棋観戦記にあった、『ある一手を差すと、次に差す手がない』という言葉が目に留まり、その途端、なぜか(将棋というのは好手を差し続ければ勝てるゲームなんだ)と直感的に悟り、それから将棋にのめり込んだのだそう。
やはり運命だったのでしょうか。
加藤さんは棋士生活が長いこともあって、勝ち数も多いのですが負け数も多い。しかし負けた時ほど、己と徹底的に向き合うことで自信が生まれて強くなるということを何度か体験してきたそうです。
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インタビューアー「負けて強くなる、というのは長年、将棋に一途に打ち込んでこられたからこその、加藤さんの実感なのでしょうね」
加藤「将棋には勝ち負けがつきものですが、私の場合は一千回以上も負けているんです。何と言っても負け数一位ですから(笑)。
千回負けたというと『そんなに負けて大丈夫なの』と思われるかもしれませんが、プロの将棋界で負け続けると最短十三年で引退に追い込まれます。現に将棋界の歴史で千敗達成者は、私を含めてまだ三人しか存在しません。
別な言い方をすると、たくさん負けるには、それ以上にたくさん勝たなくてはいけない。千敗というのは、六十年以上現役を続ける『強さの証』だと自負しているわけです(笑)」
イ「負けが続いた時の加藤さんの心の支えは信仰だったのですか」
加藤「はい。二十代の頃、棋士として鳴かず飛ばずというのか、行き詰ったと思った時期が一年ほど続いて、『将棋と同様、人生においても最善手があるのではないか』と思っていた時に巡り合ったのがキリスト教でした。
人間は誰でも幸せを求めて努力をします。棋士もそうです。ただ、そこに神様からの協力が得られれば、さらに人生は飛躍発展につながるというのが私の人生観なんです。(中略)」
イ「信仰は対局の場でも生きてきますか」
加藤「何より人間としてのゆとりが生まれますね。勝負師というのはガチガチに固くなってはいけないんです。常に余裕を持って、十二分な力が発揮できないと勝てない。私の場合、そのゆとりは信仰から生まれるのですが、信仰のない人でも自分なりの工夫をしているはずです。
(中略)
それと合わせて大切なのは、やはり怯(ひる)まない心です」
イ「ああ、怯まない心」
加藤「私は中原名人との決戦の時、『旧約聖書』の言葉を胸に刻もうと誓い、それを心で唱えながら名人戦を乗り切りました。『勇気をもって戦え』、『相手の面前で怯むな』、『弱気を出してはいけない』、『慌てないで落ちついて戦え』、この四つです。
弱気になると判断力が鈍り、迫力が無くなるんですね。私はいまも若手棋士との対戦が多いのですが、若手の間では作戦の幅がものすごく広がっておりましてね。当然ながら、相手は私の将棋を研究して臨んでくる。
私にしたら、突拍子もないアイデアなど出ないと分かっているのに、『若手が新しい作戦を思いついたのでは』と不安がよぎることがあります。その迷いに囚われると弱気になってしまう。
このように、ギリギリのところでは、ちょっとした心の持ち方が勝敗を決することがあるんです。その迷いを断ち切り、勝負に臨む冷静さが勝負師には求められますね」
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一級の勝負師でも弱気になることがある。それを自覚したうえで、自分自身に『弱気になるな』ということを常に語りかけているというのが印象的でした。
仕事だって、予期しない出来事やトラブルはあるわけで、それに対して一度でも逃げる姿勢を示してしまうともう戦う迫力はなくなってしまいます。
トラブルに出会った時は最初の迫力が大事です。
「弱気になるな」「怯むな」「慌てず落ち着け」、これらは仕事でも人生の生き方としても参考になりますね。