北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

石川啄木没後百年記念フォーラムin盛岡市

2012-06-02 22:41:48 | Weblog
 朝一番の飛行機で新千歳から岩手花巻空港へ。

 今日は盛岡市で開催された「石川啄木没後百年記念フォーラム」に出席です。

 今日の盛岡市は快晴で気温もぐんぐん上がり、25℃近くまで上昇。とても暑い一日となりました。

 飛行場から盛岡駅前まで移動して盛岡市役所の課長さんと合流。午前中は盛岡市内で啄木ゆかりの施設などを案内して頂きました。

 もりおか啄木・賢治青春記念館は旧第九十銀行の建物を現代に活かした展示館。


 【趣がありますね】


 盛岡市は戦災で焼かれることがなかったため、昔の建物が比較的残っています。

 岩手銀行としてまだ使われている建物は明治時代のもの。横浜で今は神奈川県立歴史博物館になっている旧横浜正金銀行によく似ています。


 【これはなかなか立派です】


 もっとも古い町並みが残っている分、道路開発が進まず道が狭い、という恨みがあるかも知れませんが、今となっては、却ってその方がほどほどのまちづくりに繋がっている印象です。

 商店街なども、チェーン店が増えてきたというものの、シャッターが閉じられた店があるわけではないし、活気が溢れています。

 これで人口30万人だとのことですが、新幹線駅の駅前はやはりちょっと風格がありますね。


 【今日はさんさ踊りが披露されていてラッキー】


    ※    ※    ※    ※



 昼過ぎにバスでフォーラム会場となる渋民文化会館へと移動。途中で石川啄木のひ孫である石川真一さんご兄弟とも合流ができました。

 石川真一さんの「真一」とは、啄木の二歳で夭逝した長男と同じ名前。しかも誕生日が啄木と同じ二月八日なのだとか。いろいろなご縁を感じますね。


    ※    ※    ※    ※


 いよいよフォーラムの始まり。実行委員会や市長さんのご挨拶のあとに、地元の子供達による鼓笛隊や不来方(こずかた)高校音楽部による歌の披露。

 不来方高校のコーラスでは、啄木の短歌に作曲家の新井満さんが曲をつけた「ふるさとの山に向かいて」が披露されましたが、鳥肌が立つくらいの上手さに圧倒。

 さすが毎年全国大会で金賞を取るだけのことはあります。


 【素晴らしい歌声でした】


    ※    ※    ※    ※


 フォーラムの目玉の一つは建築家安藤忠雄さんによる、「歩きながら考える」と題した講演会。

 彼の発案で実際に造られた建物の説明を中心に、日本人論、現代社会評論を面白く聞かせてもらいました。






 安藤忠雄さんが東大の教授として迎えられた時、彼はどうしようかとサントリーの佐治社長に相談したのだそう。

 すると答えは「やめときなさい」
「なんでですか?」

「あんたは建築しか出来ん。東大の人たちは勉強しかできん。接点がない! と(笑)」

「日々感動せよ! 死にものぐるいになれ! 境界を越えろ!」などは安藤忠雄の生き方だけに、心に訴えかけるものがありました。

 死にものぐるい、ね。


 また、「最近の日本人からは教養と野生が消えましたな」とも。

「広島から訪ねてきたいという学生に、『歩いてこい』と言ったら本当に歩いて来た。後でその子が『学生の時に唯一覚えているのは広島まで歩いて帰ったことだけでした』と言っていました」
 
「学校での一番の思い出がそんなことだなんて、学問をするということや教えると言うことをどう考えているのか。能力の問題なのかやる気の問題なのか、やっぱり死にものぐるいじゃないんじゃないかな」
 

    ※    ※    ※    ※



 いよいよ最後は、私も登場する「啄木ゆかりの地サミット」です。

 地元盛岡の市長さんをはじめ、飛び出した先の函館市教育長、札幌啄木会会長、釧路市からは私、そして最後にわずか26歳二ヶ月で人生を終える終焉の地となった東京都文京区長さんが参加しての、啄木にまつわるお話の披露でした。

 函館市からは、啄木が代用教員をした渋民小学校と函館の弥生小学校との交流事業や、盛岡市と函館市による交流啄木カルタ大会などが紹介されました。




 札幌からは9月15日に啄木の歌碑を作るべく奔走されている状況が報告されましたが、まだ世間の認知が低いと嘆かれていました。

 また文京区長さんからは、啄木を縁にして盛岡市と文京区との間で災害時相互連携協定を結んだという話や、周辺の地の碑の話題が提供されました。
 
 「啄木終焉の碑」については、以前東京都が作ったものがあったのですが、碑が啄木時代のアパートの土地と国家公務員宿舎との境界の真上にあり、国家公務員宿舎が解体された際に壊れて今はないのだそう。

 実はそれを文京区として、高齢者用ショートステイ施設を作るのにこの旧国家公務員宿舎跡地を購入する決断をしたので、建てられることになりそうだ、とのことで、ついては国際啄木学会から碑を建造するご寄付もいただけるようなのでよろしく、とのことでした。

 これはちょっとしたサプライズで会場も大いに沸きました。


 私の方からは啄木の釧路での様子を報告しつつ、全国で盛岡市の五十数個についで二番目に多い27個の歌碑の数を誇る釧路で、啄木はとても愛されている、というお話をしました。

 啄木が釧路にいたのは1月21日から4月5日までの76日間のことですが、つまりは冬の季節にしかいなかったわけ。だから彼の短歌を理解しようと思ったら、冬に味わってこそなのです。

 今日盛岡市で一日を過ごさせて頂いて、初めて彼が見た故郷の山である岩手山や北上川を見ました。

 この風景を実際に見ることなしには、彼の短歌を真に味わうことにはならないのではないか、と思います。

  ふるさとの山に向かいて
    言ふことなし
     ふるさとの山はありがたきかな


  かにかくに渋民村は
    恋しかり
     おもひでの山おもひでの川

    
 日本中で今も愛され続けている石川啄木。彼が釧路に住んでいたことを本当に誇りに思う一日でした。



 【啄木にとってのおもひでの山、岩手山】
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こんな「冷やし」はいかが

2012-06-01 23:31:20 | Weblog
 昨日、熊谷市のホームページにバナーを貼った件はいくつかの新聞に書いて頂けたほか、テレビでも涼しい釧路での避暑生活がニュースの話題として取り上げられました。

 頑張ったなりの成果が得られてまずはよし。この釧路の涼しさをもっと表現するにはどうしたらいいかを、また若手の職員達と議論しようと思います。

 昨日の記者レクを巡ってある新聞社の方と意見交換ができました。

 その方は「このままではちょっと弱い」という意見をお持ちで、「日本一暑い熊谷市にバナーを貼るのなら、『日本一涼しい釧路市が…』と言えるようなセリフはありませんか」と言います。

 「測候所のある都市の中では、とか人口○○万人以上の都市の中で…とか、条件付けはいろいろ考えるとして、『一番涼しい』という称号が欲しいところですね」とも

 やっぱり二番じゃダメ、一番でなくちゃダメなんです。多少苦しくたって、しゃにむに一番の称号を取りに行くがむしゃらさがまだまだ釧路には不足しているようです。がんばらなくては。


    ※    ※    ※    ※


 その記者の方はかつて山形市に勤務した経験があるのだそう。

 私も覚えていますが、山形市はかつては日本で一番高い気温を記録した土地でした。フェーン現象という、山に上った空気が下ってくる時には気温が上がるという現象で、1933年に40.8℃という最高気温を記録したのです。

 その記録は埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市に2007年に0.1℃抜かれてしまったのですが、最高気温を抜いて一番になったことで熊谷市と多治見市では「日本一暑い町」という称号をまちづくりに大々的に使うようになりました。

 実は山形市では、この間一番暑い町ということを東北の人たちの謙譲の心からか自慢することが恥ずかしいと思っていたようで、事実暑い日が多いにもかかわらずそうしたまちづくりをしてきませんでした。

 熊谷市に抜かれてみて初めて、日本一暑いということが他の町と差別化出来る要素だと気づいて多少悔しがっているのだとか。

 失って初めて分かる価値というのがあるものですね。


    ※    ※    ※    ※



 【うーん、クールかも】


 ところで、山形市は実際に暑いところなのでそれをどうやって過ごすかという工夫として「冷やし文化」の面で結構見るべきものがあるのだとか。

 例えば「冷やし中華発祥の地」でもあるなんて案外知られていません。

 少し前には床屋さん達が、「自分たちも何か出来ないか」と考えて、シャンプーをキンキンに冷やしてシャンプーするという「冷やしシャンプー」を開発して、これが大受け。

 ラーメン屋さんが季節になると「冷やし中華始めました」と書いた紙を貼るように、床屋さんに「冷やしシャンプー始めました」という紙が張り出されるのだそう。

 しかも山形~仙台間には一日数十本の高速バスが運行していて、山形市民が仙台に買い物に行ったりする反面、仙台から高速バスで山形へ行って冷やしシャンプーをして帰ってくるという楽しみも人気なのだそう。

 また名物の玉こんにゃくを冷やして食べるなんてことも始まったそう。

 暑いが故にこれを過ごしやすくしようと言う生活の知恵が「冷やし文化」としてこれまた他市との差別化の要素となるなんて面白いではありませんか。

 食べ物がグルメとして地域を特徴づけるということは良くありますが、日常の生活もまたこだわれば文化の趣を持ち始めます。

 さて、釧路の涼しさ故のライフスタイルが日常の生活文化になっていることなどあるでしょうか。そしてそれをまたどう表現したらよいでしょう。

 まちづくりは無理のない日常の生活から始まっていると言えそうです。

 視点を変えて発信する。そのちょっとした追加の手間が町を活気づけますね。
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