歴史街道 2016年 09 月号 | |
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.「邪馬台国」の文字に魅かれて買ってしまった本誌。この号の特集は、ノンフィクション作家である足立倫行氏のガイドで歩む、邪馬台国を中心とした「古代史の迷宮」の旅である。
「邪馬台国」は、中国の魏志倭人伝に記され、古代にそのようなことがあったことは間違いないが、それがどこにあったのかは、古くから論争が続いている。論争の歴史を辿れば、江戸時代にまで遡るようだが、有名なのは、明治43年(1910)から始まった京都帝国大学の内藤虎次郎(大和説)と東京帝国大学の白鳥庫吉(九州説)の争いだろう。
しかしこれらのどちらにも、魏志倭人伝の記載を恣意的に解釈しなおさないといけないという欠点がある。九州説は距離に、大和説は方向に関しての問題があり、いまだに明確な結論は得られていないのだ。
大和説と九州説は有力な説だが、これ以外にもいろいろな説がある。なにしろ古代のことなので、決め手になる証拠に欠ける。それに主張する人の郷土愛が加わると、もう議論百出。日本国中どこに邪馬台国があってもおかしくないような状態だ。
近年は、大和の纏向遺跡の発掘により、そこが邪馬台国の候補地として有力だと見る人も多いが、九州説に決定的なダメージを与えるまでには至っていない。
私は個人的には、邪馬台国は九州にあったものが、大和に移ったのではないかと思っている。根拠は記紀にある日本神話だ。なぜニニギノミコトは、わざわざ九州の高千穂に天下ったのか。大和にも山はたくさんある。最初からそこに天下ればいいではないか。また、魏志倭人伝に描かれている倭人の風俗は明らかに南方のものだ。大和ではあり得ない。神武東征神話は、それを暗示しているのではないだろうか。
もっとも本誌では、この東遷説には、九州から大和の間に、九州式土器が見つからないという欠点があると書かれている。しかし、本当に欠点だろうか、土器が見つからない理由はいくつか考えられる。
まず、東遷は敗走の旅だった可能性がある。当時邪馬台国は狗奴国と争っていた。戦いに敗れて、東へ移ったとしたら、わざわざ九州式の土器などを、行く先々で作るだろうか。その地域で使われている土器を現地調達するというほうが理に適っていると思うのだが。
もう一つは、単に見つかっていないというだけかもしれない。東遷が何年も何十年もかけて行われたのでない限り、本誌に書かれているように、九州式土器が「多数」見つからないといけないというのは本当にそうだろうか。
本誌を読んで、まだまだ邪馬台国の解明には時間がかかりそうだと感じた。九州からも畿内からも様々な出土品が出ているが、最終的には学者の主義・主張ではなく、これらの証拠品により、真相が解き明かされなければならないと思う。今後の発掘に期待したいと思う。
なお本号には邪馬台国に関して、興味深い記事が掲載されているので紹介しておこう。まず邪馬台国の都の復元想像図である。文字だけではなかなかイメージがわかないが、こういったビジュアル的なものがあると、邪馬台国というものが少し身近になった気がする。
もうひとつは、映画化もされた「まぼろしの邪馬台国」の著者である宮﨑康平氏のお孫さんで女優の宮﨑香蓮さんのインタビュー記事が載っていること。香蓮さん、「花燃ゆ」にも出ていたということだが、大河ドラマはあまり視ないので知らなかった。
このほか、大河ドラマ「真田丸」の関係で真田信幸に関することも第二特集として掲載されている。
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※本記事は、書評専門の拙ブログ「風竜胆の書評」に掲載したものです。