お彼岸20日に雨の中お墓参りに行ったからでしょうか、何か疲れてます。天気の良かった2日間、出掛けたのは昨日の夕方、念のためにと灯油1缶買うついで、あまり乗らないクルマに久々の給油をしに行ったくらい。他は延々と続くスキャニングに時間を費やしてました。
スキャニングは疲れますが、35mmリバーサルを多用していたのは25~30年前くらいなので、懐かしい思い出がマルでつい数年前のことのように蘇ってきます。
そして、たまに手を休めて他の方のブログを拝見したり、鉄道の情報を探したりとしているのですが、その中でJR東日本最後の455系がさよなら運転を行った記事がありました。
455系といえば、母親の実家に行くときは、455系急行が最初の頃の主な手段で、まだサハシを連結している頃に随分乗りました。ただ、小学3年か4年の頃、早朝出掛けにコーヒー牛乳を飲んだ際、満員で座ることも出来なかったときに酔ってしまい、通路でリバースしてしまったトラウマからか、乗る機会が減ってしまいました・・・。
そんな出来事も今は思い出、あのローズピンクをまとって本線を13・12両で駆け抜けていった455系急行への憧れはなくなることはありませんでした。
昨年の2月、455系が仙台地区から撤退ということで、まだ写真のスキャニングを始めたばかりの頃、 http://diary.jp.aol.com/marutetsu/26.html で彼らを見送ったつもりでいたのですが、あれから1年、まだ頑張っていた編成があったのですね。
そして、とうとう『全廃』という悲しい現実を受け止めなくてはならなくなってしまいました。
今日は、そんな彼らが急行列車の地位から陥落し、地域の足として活躍していた晩年の写真をご覧いただこうと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/15/9e9c51dc7fd95dbdfd3f55ae3401a164.jpg)
昭和62年11月23日 磐越西線 翁島~猪苗代間にて
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/91/60412154e18af5d46f87edab44fe5972.jpg)
昭和62年11月23日 磐越西線 翁島~磐梯町間にて
急行列車の地位から陥落したのは東北新幹線の開業の頃。短編成化・近郊改造や塗色変更などされてから、もう25年も経つんですね。ちょうど私が国鉄に就職した年ですから、晩年というにはまだ早過ぎる頃です。
まだ初期の頃はシールドビームに改造されていない車両も多く存在しました。
写真は、分割民営化間もない頃。磐越西線は、勾配抑速ブレーキを備えた455系にふさわしい活躍の舞台でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/cd/673c7cfc2edf6d4b140f9405686ad82a.jpg)
平成5年2月2日 磐越西線 磐梯町~翁島間にて
平成になると、復活したD51498が毎冬磐越西線を走るようになったため、グリーンライナー化された彼らを撮る機会も増えたかもしれません。
あくまでもD51の露払い的存在にしか見ていませんでした。やはりグリーンライナーという塗装と、似合わないライトのボックス化が気持ち的に彼らを拒否してしまったと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/da/d65d9027d85443fde9dd2a1e00abe342.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/9b/25d50a903ea7138614cd604f20a6fd2f.jpg)
平成13年7月8日 東北本線 須賀川~安積永盛間にて
これもSL撮影のついででしたね。仙山塗装の車両も見えますが、これも仙山線から撤退後で、東北線や磐越西線にも顔を出していました。
今改めて見ると、3両編成の普通列車はデッキまで立席が出ており、むかしED71や75が12~3両の客車を従えて走っていた頃とは、比べることさえナンセンスな感じです。
彼らがこの世に誕生してから約40年。長きにわたり時代の発展に貢献した彼らに惜しみない拍手を送りたい。
まだ他では同僚が頑張っている地域もありますが、とかく思い入れの強い東北急行を勤めた彼らを永遠に忘れることはないでしょう。
現在スキャニングが終わっていない過程の中で、これからまだまだご紹介できる彼らの活躍シーンがあります。今後はそんな活躍シーンをご覧頂きながら、皆さんと回想していきたいと考えております。
お疲れ様でした。455系たち・・・さよなら東北急行のスターたち・・・
スキャニングは疲れますが、35mmリバーサルを多用していたのは25~30年前くらいなので、懐かしい思い出がマルでつい数年前のことのように蘇ってきます。
そして、たまに手を休めて他の方のブログを拝見したり、鉄道の情報を探したりとしているのですが、その中でJR東日本最後の455系がさよなら運転を行った記事がありました。
455系といえば、母親の実家に行くときは、455系急行が最初の頃の主な手段で、まだサハシを連結している頃に随分乗りました。ただ、小学3年か4年の頃、早朝出掛けにコーヒー牛乳を飲んだ際、満員で座ることも出来なかったときに酔ってしまい、通路でリバースしてしまったトラウマからか、乗る機会が減ってしまいました・・・。
そんな出来事も今は思い出、あのローズピンクをまとって本線を13・12両で駆け抜けていった455系急行への憧れはなくなることはありませんでした。
昨年の2月、455系が仙台地区から撤退ということで、まだ写真のスキャニングを始めたばかりの頃、 http://diary.jp.aol.com/marutetsu/26.html で彼らを見送ったつもりでいたのですが、あれから1年、まだ頑張っていた編成があったのですね。
そして、とうとう『全廃』という悲しい現実を受け止めなくてはならなくなってしまいました。
今日は、そんな彼らが急行列車の地位から陥落し、地域の足として活躍していた晩年の写真をご覧いただこうと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/15/9e9c51dc7fd95dbdfd3f55ae3401a164.jpg)
昭和62年11月23日 磐越西線 翁島~猪苗代間にて
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/91/60412154e18af5d46f87edab44fe5972.jpg)
昭和62年11月23日 磐越西線 翁島~磐梯町間にて
急行列車の地位から陥落したのは東北新幹線の開業の頃。短編成化・近郊改造や塗色変更などされてから、もう25年も経つんですね。ちょうど私が国鉄に就職した年ですから、晩年というにはまだ早過ぎる頃です。
まだ初期の頃はシールドビームに改造されていない車両も多く存在しました。
写真は、分割民営化間もない頃。磐越西線は、勾配抑速ブレーキを備えた455系にふさわしい活躍の舞台でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/cd/673c7cfc2edf6d4b140f9405686ad82a.jpg)
平成5年2月2日 磐越西線 磐梯町~翁島間にて
平成になると、復活したD51498が毎冬磐越西線を走るようになったため、グリーンライナー化された彼らを撮る機会も増えたかもしれません。
あくまでもD51の露払い的存在にしか見ていませんでした。やはりグリーンライナーという塗装と、似合わないライトのボックス化が気持ち的に彼らを拒否してしまったと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/da/d65d9027d85443fde9dd2a1e00abe342.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/9b/25d50a903ea7138614cd604f20a6fd2f.jpg)
平成13年7月8日 東北本線 須賀川~安積永盛間にて
これもSL撮影のついででしたね。仙山塗装の車両も見えますが、これも仙山線から撤退後で、東北線や磐越西線にも顔を出していました。
今改めて見ると、3両編成の普通列車はデッキまで立席が出ており、むかしED71や75が12~3両の客車を従えて走っていた頃とは、比べることさえナンセンスな感じです。
彼らがこの世に誕生してから約40年。長きにわたり時代の発展に貢献した彼らに惜しみない拍手を送りたい。
まだ他では同僚が頑張っている地域もありますが、とかく思い入れの強い東北急行を勤めた彼らを永遠に忘れることはないでしょう。
現在スキャニングが終わっていない過程の中で、これからまだまだご紹介できる彼らの活躍シーンがあります。今後はそんな活躍シーンをご覧頂きながら、皆さんと回想していきたいと考えております。
お疲れ様でした。455系たち・・・さよなら東北急行のスターたち・・・
上野からまだ夜行急行として運用についた頃に乗っています。
高校1年の時、キハ181のあおばを撮りに行く時には、まつしま、高校2年の時はED71を撮りに、やっぱりまつしまで夜を過ごしたなんて事もありました。
自分もあの前照灯のボックス化は、魅力を失わせた一つですね。
また国鉄時代の形式が消滅ですね。
455で一番乗ってたのはあづま5号でしたな。単独編成の仙台行の夜行急行で、福島から各停になるやつでしたね。
山陽のつくし、北陸のゆのくに、立山、東北のまつしま、あずま、ざおう、ばんだい、いわて・・・。常磐のときわ、もりおか、みんな思い入れがあります。とにかく長い間お疲れ様でした。北陸、九州のものはどうなんでしょうね?こちらも時間の問題でしょうか?
しかし東北はクソ701が幅利かせてるんでしょうかね?アレ大っ嫌いなんですわ、ワシ。あのロングシートやめて欲しいです。
もう15年以上も前ですが、まだ独身の頃カツミ475系7連チョビチョビ買い足ししました。一気にはさすがに無理なんで模型店何件か当たりながらなんてことも。475系と謳ってますが、静電アンテナにAW2ホイッスルが組み込まれた455系タイプでしたね。これに該当する475,457ではモハの東海型ベンチレーターが2列のタイプ(475の後期、457の全て)になる筈ですから。暇があれば汚物タンク、座席もつけてやりたいです。
私が初めて見たのは「ときわ」からでしょうか、それ以前「みやぎの」がHMつけて走ってたらしいですが、写真で知るだけです。その後、「まつしま」「ばんだい」「ざおう」「いいで」「もりおか」「つくばね」数え切れないほど東北へ向けて走っていったんですね。
名車でした。ご苦労様です。
俵さん、ファン、買いましたぜ。
ぽち!
撮影の際は夜行の利用に価値がありましたね。
私も夜行の「あずま」は2回乗りましたし、「ばんだい」も1回乗りました。行先は日中線始発ですから、「あおば」の撮影と同じくらいレアではないでしょうか?
シールドビームも塗装もボックスライトも基本的に邪道でしたね。やはり、オリジナルが一番美しいと思います。
でも、「お疲れ様でした」だけは言っておきたいですね。
やはり、状況的には同じですかね。私もこの時代は好んでは撮りませんでした。
「あずま5号」ですか?多分2号じゃないですかね。
私もED71を撮りに行くとき2度ほど使わせていただきました。早朝から撮影に入れるので便利な急行でしたね。
私も急行形車両の中では1番乗りました。
外見はどれも同じようですが、ベンチレーター、クーラー、低屋根部にファンデリアグリル、453の側面グリルなど結構バリエーションがあるんですよね。全部作る気になったら相当出費しそうですね。増してHOだと数百万になってしまうのでは?
北陸はまだ残りそうですが、10年も持たない可能性が強いですね。485「雷鳥」、419系と合わせて、北陸路の記録会に出掛けなきゃと思ってはいるのですが・・・。
こんばんわ!俵孝太郎です!
ほんと、東北の455系は色々ありましたな。上野口では「なすの」「あずま」もありましたし、東北管内では「あぶくま」「そうま」「くりこま」もありましたね。ヘッドマークが付いていたら相当数撮影していたかもしれません。本当にコイツには世話になりましたよ。
ぽち、ありがとうございます。鉄ファン、なかなか濃い内容なのでジックリお読み下さい。(私の記事じゃなくて。)
もう7年前になりますけど私は会津若松へ一泊旅行に行ったさいに、会津若松駅に停車中の写真の電車を撮ったことがあります。
磐越沿線といえば直ぐにひらめくのは野口英世先生と喜多方ラーメン、ホントにこれらの写真みてると旅行に行ったときのことが想い出してしまいそうですけど、写真の説明の中に翁島駅のことが出てますが、野口英世先生がアメリカから故郷の猪苗代に帰ってきたさい、家からさほど離れてないこの駅にて帰国した野口先生に対し、町中挙げて彼を祝福したというエピソードがあります。
本日はこの辺にて失礼します。
野口英世記念館も猪苗代~翁島の間にありましたね。福島県人にとっては、歴史上の大人物なのでしょうね。力の入れ方が伝わってきます。
最初に訪れた頃は各駅とも友人で切符も売っていたんですが、いつのまにやら無人化されてしまいました。