女は強し
2018-01-15 | 家
わたしが勝負をしないのは、負けることがわかっているから。
臆病者かというと、ちょっと性質が違い、計算、打算。
ムダなエネルギーは使わない主義である。
素手で、ナイフを持っている人には向かわない。
勝負するとしたら、「じゃあ、あなた、昨日の夜はどう過ごした?」と、比較点数で競えない分野で、自己満足度を勝負する。
勝ち負けは、自分判断。
他人が見て、「あなたの方が負けていますよ」と見なしたところで、わたし自体に、価値を置いていないところで負けても、痛くも痒くもない。
頑張ってくださいね、と応援するのみ。
これは、わたしが、社会から緩やかな離脱を行なっている最近のこと。
子供の頃や、学生時代、成人になってから、、、競争社会に身を置いて頑張らされていた頃は、こんなことは感じなかった。
それでも自分の特性を活かした頑張り方を求め、模索し、自分なりに頑張ってきた。
が、わたしの中では、もう終了した。
過去の話になった。
だが、過去は消えない。それだけの話だ。
これからは、よいお年寄りになる予定だ。
が、もう老害が出始めていると感じる。
わたしがこの世から居なくなって周囲に少しでも喜びを与えることができたら、それもまあ、消え甲斐があるかも知れない。
少しの涙と、少しの安堵と、少しの喜びを感じてもらえば、それで良しとしよう。
自分の末路を想像して、良かったね、と、じーんと来た。
家族がわたしを終えるまでのケアから解き放たれ、義務感からの解放と、見終わった充実感で、少しだけ、安らいでほしい。
たくさん安らいでもらうのは、避けたい。
それぐらいたくさん、家族に負担をかけていたということだからだ。
母と話していると、「あんたは、何もしていない」とわたしを非難するが、「あんたこそ、今は何もしていなくて、何もできなくて、周りにお世話になっているではないか」と逆ギレする。
自分の置かれた状況を把握していなくて、昔の元気な頃に気持ちが戻るのだろう。
現役の頃を思い出させるのは、娘であるわたしと向かう時。
わたしたち子供を育て、孫たちとも元気に接し、頑張っていた日々にフラッシュバックする。
そういう過去は消せない。
その過去があり、今がある。
同じ話ばかりを繰り返す母と接し、イライラするが、老化が進んでいるだけである。
認知症がゆるやかに確実に進んでいるが、若いころの母や、まだしっかりしていた頃の母を子供たちや孫たちは覚えている。
昨日は、母を囲む新年会を実家で行い、総勢19人が集ったが、求心力は母なのか、今となっては力がない母に代わって、我々をかき集めた実践者の姉(姉一族)と、わたし(わたし一族)なのか。
超遠方に赴任している、わたしの息子以外は全員集合して、元気な顔を見せ合った。
しかも、去年より、一人、人数が増えている。
義理の姻戚関係の人は5人、全員男性。
血縁近親者は女性6人(孫は省く)(男性もいるが独身)
つまり、この会にはお嫁さんがいないということだ。道理で男性方は、おとなしい召使いになっているような印象を受けるはずだ。
強力なリーダーがいれば、みんなついていく。
世代交代には、まだあと20年はあるようだ。
しかし、力は新旧、徐々にスライドしていくことだろう。
臆病者かというと、ちょっと性質が違い、計算、打算。
ムダなエネルギーは使わない主義である。
素手で、ナイフを持っている人には向かわない。
勝負するとしたら、「じゃあ、あなた、昨日の夜はどう過ごした?」と、比較点数で競えない分野で、自己満足度を勝負する。
勝ち負けは、自分判断。
他人が見て、「あなたの方が負けていますよ」と見なしたところで、わたし自体に、価値を置いていないところで負けても、痛くも痒くもない。
頑張ってくださいね、と応援するのみ。
これは、わたしが、社会から緩やかな離脱を行なっている最近のこと。
子供の頃や、学生時代、成人になってから、、、競争社会に身を置いて頑張らされていた頃は、こんなことは感じなかった。
それでも自分の特性を活かした頑張り方を求め、模索し、自分なりに頑張ってきた。
が、わたしの中では、もう終了した。
過去の話になった。
だが、過去は消えない。それだけの話だ。
これからは、よいお年寄りになる予定だ。
が、もう老害が出始めていると感じる。
わたしがこの世から居なくなって周囲に少しでも喜びを与えることができたら、それもまあ、消え甲斐があるかも知れない。
少しの涙と、少しの安堵と、少しの喜びを感じてもらえば、それで良しとしよう。
自分の末路を想像して、良かったね、と、じーんと来た。
家族がわたしを終えるまでのケアから解き放たれ、義務感からの解放と、見終わった充実感で、少しだけ、安らいでほしい。
たくさん安らいでもらうのは、避けたい。
それぐらいたくさん、家族に負担をかけていたということだからだ。
母と話していると、「あんたは、何もしていない」とわたしを非難するが、「あんたこそ、今は何もしていなくて、何もできなくて、周りにお世話になっているではないか」と逆ギレする。
自分の置かれた状況を把握していなくて、昔の元気な頃に気持ちが戻るのだろう。
現役の頃を思い出させるのは、娘であるわたしと向かう時。
わたしたち子供を育て、孫たちとも元気に接し、頑張っていた日々にフラッシュバックする。
そういう過去は消せない。
その過去があり、今がある。
同じ話ばかりを繰り返す母と接し、イライラするが、老化が進んでいるだけである。
認知症がゆるやかに確実に進んでいるが、若いころの母や、まだしっかりしていた頃の母を子供たちや孫たちは覚えている。
昨日は、母を囲む新年会を実家で行い、総勢19人が集ったが、求心力は母なのか、今となっては力がない母に代わって、我々をかき集めた実践者の姉(姉一族)と、わたし(わたし一族)なのか。
超遠方に赴任している、わたしの息子以外は全員集合して、元気な顔を見せ合った。
しかも、去年より、一人、人数が増えている。
義理の姻戚関係の人は5人、全員男性。
血縁近親者は女性6人(孫は省く)(男性もいるが独身)
つまり、この会にはお嫁さんがいないということだ。道理で男性方は、おとなしい召使いになっているような印象を受けるはずだ。
強力なリーダーがいれば、みんなついていく。
世代交代には、まだあと20年はあるようだ。
しかし、力は新旧、徐々にスライドしていくことだろう。