蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

三部作 (孫)(弟子不合格)(群れない群れ)

2018-01-19 | 日々のこと
第一部【孫】

今日は涙ぽろぽろ、はらはら、眼は大雨。
歳が行くと老化するが、特に涙腺は著しい。
三頭身孫の学芸会の祖父母向け招待会があった。
自分の孫の出番でもないのに、涙が次々と溢れ出る。
他にもハンカチぐしょぐしょの祖母(若いけど)がいて、アレルギー性鼻炎か風邪かと思っていたが、泣いている?
不思議だなあと感じていたら、見る見るうちに伝染。
涙は伝染するようだ。

親が見るより、祖父母が見るほうが、感涙に咽び泣くと思う。
親はまだ毎日が育児戦争。
よくここまで成長してくれた、と、じーんと来るだろうが、祖父母はまた別の、じーんがある。
ひいおばあちゃんぐらいになると、認知症がかっているので、大勢の中から自分の曽孫を探せず、感情移入できず退屈。
探せたとしても、無表情に近いかも知れない。

作られた大衆娯楽映画より、ずっとよかった。
今も昔も変わらない。まだ競争を知らない無垢な子供たち。
これからの成長や、成長に伴うあれこれを想像すると、評価が真っ白に近い今が、1番良い時期かも知れない。

(ここで終わっておけばよいものを、ここからが長いです。
ここで読むのを終了するのも、おすすめコースです)


第一部 付録【他人】

わたしは、三頭身の学芸会動画を公表する気など、さらさらない。(本番はまだ一週間先なので、撮影は禁止となっているし)
例の、三頭身孫のバレエ発表会動画が頭をかすめた。一人一人(祖母)、感性はこんなに違うのかと改めて強く思った。

自分の孫や、孫と同じ保育園に行っている子供たちをそっと自分のこころの中で応援する人。
かたや、ありとあらゆる自分に関係、関心がある不特定多数の人々に、自分の三頭身孫を見てもらう人。
たんに性格だけではなく、生き様や生い立ち、背景も絡んでくるのかも知れない。

皇室だったとしたら、公表したくなくても公表されてしまう。
嫌なら皇室に入るな、という話だが、後継者はそういう訳にもいかない。
プライベートと、非プライベートの境がつけにくい立場に、もしわたしがいたら、1日と持たない。
そんな立場でもないのにリクエストされてもいないのに、プライベートを思いっきり、さらす人。
やはり、この感覚にはわたしは付いていけない。(付いてこい、とも言われていないが)
人には人の数だけ幸せがある。
(例えば、子供や孫のいる幸せ)大まかなところは同じだが、細かく枝分かれした部分まで同調なんて、土台無理な話だ。
とっとと忘れよう。

子供も孫もいない人、子供はいるけれど、孫のいない人、女の子はいるけど、男の子がいない人、男の子はいるけど、女の子はいない人、、、、キリがない。

(ここで、読み終わるのも、第二のおすすめコースです)


第ニ部【弟子不合格】

今、あまりにも退屈した時に、無理やり読んでいる本がある。
お正月明けに夫の実家から持ち帰った、姑の本「般若心経90の知恵」。
睡眠不足や、不眠症にはもってこいである。
即、眠くなる。

その中に、わたしの考えとは違うことも唱えてあり、「ああ、違うなあ」と自分の考えを確認するのには、良い。
人が言っていることはとりあえず耳を傾けるが、全てを鵜呑みに、まるごとなんの疑いもなく受け入れることは、わたしはできない。
当たってる、当たってない、半分当たってる、などなど、様々なジャッジ、反応をする。
たとえ、お釈迦さまの教えでも、受け入れられないことは、受け入れられない。
全てを受け入れなければ真の仏教徒になれないのであれば、あるいは、修行を積んで受け入れられるようになるまで頑張らなければいけないなら、ちょっと離脱、一時、脱却する。
または、受け入れられない箇所だけ飛ばして、次に行く。
全てを完璧に受け入れようとしたら、あの世に行くまでに時間が足りない。
時間切れで履修科目が足りず、極楽浄土には行けないわけだ。

話が長くなり、読む側は疲れが出てきたと思うが、なぜかまだ続く。
(読み終わり第三のおすすめコースです)


第三部【群れない群れ】

宗教色は完全に抜いたところで、
今の、わたしの考え方、感性とほぼ同じ人が一人いる。
で、つい最近、またもう一人、現れた。
さらに部分的に同じ傾向のある歳下の別の人とは、これまた最近、開かれた文通のようなことをしている。
SNSの自分ページ上での書簡(私信)のやり取り、公開版。
自分宅での、非下品2ちゃんねるトークみたいなもの。
我々は1対1スタンスで、共通点がある。
群れるのが嫌いということだ。
群れないが、お互いの両手をがしっと結び合っているのではなく、片手だけで結ばれている。もう片方の手は、開けておく。自分用に自由が利くように。
別の違う人と、がしっと結ばれそうになれば、五本ある指を追加する。片方の脚や腕でも良い。
そういう人が何人も何人もいて、片側一方を使って個人と繋がっている。
これは群れてはいないが、群れるのが嫌な人が同じ所に、ひしめいている。
これって何?
今時のゆるやかな群れない集団?
群れないのに集団なところが、お一人様ばかり集まる会、みたいなかんじで、パラドックスっぽくて、摩訶不思議で面白い。(面白いと感じるのはわたしだけ?)

群れない新しいかたち、と思っていても、全く新しくなく、皆、もうとっくに取り入れ、実践していることだろう。

さあ、何が言いたい?
自分にそっくりな傾向、嗜好の人がここのところわたしの周りに集まってきていると感じる。
別にわたしを中心にしているわけではなく、個々に繋がっている。

なにを今更?
たんに類は友を呼ぶだけでしょ?と斬られそうだが、その通りだ。
世界中で唯一無二の自分、と自負していたのに、唯一無二が、唯ニ無三、唯三無四、唯四無五、、、と、自分のコピーみたいにいっぱいいることがわかり、しかも群れない主義なのに、一匹狼が1万匹も100万匹もいて、群れている集団より多くなる、この事態。
これは、群れていない、群れ?
お一人様専用、「一人旅の御一行様」団体のようだ。
群を嫌うアンチ集団派が集まり「『アンチ集団』集団」を作る?
矛盾集団?
なんだか、よくわからなくなってきた。

正解を決めず、個々に正しいと認め、やがて正解は実体がなくなり、、、
でもこれって、今の世相や、政治の支持者の特徴、動きだったりするのではないだろうか。
なんたらかんたら、延々、、と続く、、、

最後に思うこと。
長文で、すみません。

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